本動画は2023年10月7日に開催されました、「やはり義経はチンギス・ハーンだった」出版記念講演会の、講演会パートを抜粋した動画となります。
講演会の詳細:
主催:義経チンギス・ハーンの会
【新刊情報】
★田中英道『やはり義経はチンギス・ハーンだった!』(2023年9月15日発売 / 文芸社)
★田中英道×大倉源次郎『能の起源と秦氏 知られざる帰化ユダヤ人と日本文化の深層』(2023年6月27日発売 /ヒカルランド)
★田中英道×茂木誠『日本とユダヤの古代史&世界史』(2023年6月9日発売 /ワニブックス)
◇協力:日本国史学会
◇田中英道ホームページ | 「美の探究者、歴史と思想を語る」
http://hidemichitanaka.net/
#源義経 #チンギスハーン #ジンギスカン
田中英道先生を敬愛、尊敬しておりますがさすがにこれは無理がありますね。リーダーにおさまるには言葉の問題もありますしね。
田中英道先生の 長年の集大成は、ご著書だけでなく 全て先生の絞り出すような丁寧な゙お言葉に溢れ出ています。そして研ぎ澄まされています。
感じ取れない人も 居ることでしょうが、そんな事は気になりません。
拝聴出来る恵まれた今に
感謝いたします。
ありがとう御座います😊
源義経はチンギス・ハーンでは、絶対ない。
霊能者に聞いての結論。
霊体が違うって言ってた。
ジンギスハンの父親は客人❔テムジンって呼んだそうだから"(-""-)"、、出生も謎なんですよね、、
田中先生いつも有難うございます!ジンギスカン説がますます面白くわかりやすく真実を研究することを楽しみにしています!これからも素晴らしいわかりやすい語り口で説明して下さるようご鞭撻のほど宜しくお願い致しますしこれからも楽しい私達みたいな素人にもわかるようにこれからも聞いて楽しい時間講義を宜しくお願い致します!
モンゴルに追われてやってきたアイヌが義経と一緒にいる絵馬はおかしいですね。しかもこの頃に木綿の服はあり得ない
単純に、双方の似顔絵は似ているとは思いません。また、モンゴルと日本の文化的相似は、時代を大きく捉えれば、大陸と日本列島の交渉史からも説明できます。この説は眉唾ものですね。
肖像画は、確かによく似ています。同一人物だと思います。天神テムジンというのは日本語ですね。多言語の能力を持つのがユダヤ人の特徴でもあり、秀でた戦略性とか、源義経らしい戦い方のうまさ、現地のユダヤ同胞の支援を得られる素地をもつとか、ますます納得しました。すばらしい。
チンギス汗が義経だとすると元のフビライ汗はその孫ですね。その孫は自分のルーツが日本人であることを知らなかったのかな?
フビライの戦線布告書を見ても祖父のくにのことはなにも書かれてないのは不審ですな。
茂木先生との共著で、田中先生のことを知りましたが、これはダメです。長年の地道な研究が台無しになりました。大虐殺王のチンギスハンが何で義経なの!
義経夢の会LINEにシェアしました。
田中先生のファンです。ご著書や動画などを拝見し勉強させて頂いております。パキスタン人と知り合いになり、5年ほど前にパキスタンを訪れました。パキスタンにはカーンという名字(?)の部族(?)が大勢いると知りました。もしかしてハーンが訛ったか、発音の微妙な違いで、ハーンがカーンになったのでは?何か繋がりがあるのでは?と思っています。
昔は我々はジンギスカンとしか言わなかった。田中先生ともあろう人がチンギスハンと言わないで頂きたい
いつも拝見して居ります。🙇
これからも歴史の真実を世界へ発信して下さい😊ありがとうございます🙏
眉毛の形が」これだけ違うのに証拠になるかね。画家が眉毛の形を間違えることはないだろう。
先生 ありがとうございます😊 私は 半信半疑です。 歴史の ロマンとして このミステリーを 美しく 妄想することが 楽しいですね。
確かに似てますね👀驚き‼️
今日まで先生のご高説の中でもこの説だけは一服の笑い話として聴いてました(汗)。保守言論人随一の歴史家を自称する倉山満とモンゴル専門家である宮脇淳子先生もトンデモ話としてせせ笑ってますよ…。
20:47 「『みなさんの』DNA-D2eが湯田屋と同じ」と限定表現を使ったということは、先生はD2eじゃなかったんですか?秦氏末裔を自称しておられたのに?
源義経は東北から北海道に逃げて、仲良しのアイヌや武士団と共にロシアルートでモンゴルに渡ったと言われていて、そこかしこに証拠が残っているそうです。ロシアにも笹竜胆紋は残っています。そもそも義経チンギスカン説は外人側から言われていた事だそうです。
新約聖書の「ローマ人への手紙の」1章20節は自然の本質を言われていると思いますが、どうして神否定につながるのか解りません。むしろ創造者を証明していると思いますが。
田中英道「やはり源義経はチンギス・ハーンだった!」・・・先生言葉がおかしくありませんか?これでは源義経が日本人ではなく、モンゴル人と言う事だと思います。史実は拙者にはわかりませんが「やはりチンギス・ハーンは源義経だった!」が正解だと思います。
昔これを(義経)知った時、まさか、、しかし、年代は符号する。
と思ったが、、、
先生の発言で、益々興味が湧きました。
田中さんこれがほんとならすごいよ。義経の血が世界中にばらまかれたんだ。DNAをしらべれば解る。俺は恐ろしくって素晴らしい指摘しかない。田中先生の度胸に負けた。くまちゃんネット
関東平野とモンゴルは似ている。乾燥した内陸部や大河を有していたり。牧畜が盛んで、肉うどんやラーメン餃子は昔も今も共通した食文化のはずだ。馬を操って遠征が得意。海と山を行き来する仕事に発展。血気盛んなトラック野郎の先祖かもしれない。
早速購入し、読み切りました。ご講演で聴きますます深みが増し何度も聴かせて頂いてます。ありがとうございます。
57:48からは、この御講演のある意味で本質。民族性の話し、西洋と東洋の深い関りを再認識させられます。
そして、全体を通して日本人の誇りと気概を感じる素晴らしいご講演に感謝いたします。
すんません、マンガでは素晴らしいと思いますが、モンゴル側に確認してから出版されたほうがよろしいかと思います。
チンギス・ハーンはモンゴル人であり、それはモンゴルの方にとって偉大なる誇りある方です。
あまりにも、モンゴルから見れば、失礼だと思います。
モンゴルに確認をお願いします。モンゴルは偉大な国です。出版の意味を考えられたほうがよろしいかと思います。
夢は有るけど有り得ない!
田中先生の講義はいつも興味深く拝見してきましたが、これはちょっと思い込みが激しすぎませんか?
・義経ほどの人物なら単身渡ったとは考えにくく付き人がたくさんいたはずですが、バルジュナト13名のうち何人が日本人だったと思われますか?
・頭の中が戦術のことばかりで発達障害があったように見受けられる義経と、行政にも類まれな能力を発揮するチンギスハンとでは別人のようですがなぜ同一人物と判定できるのか?
・義経の前へ前へ行く天才的な戦術と、モンゴル得意の釣り野伏的な戦術とでは全く違いますが、同じ人がこんなに違う戦術を採用しますか?
・チンギスハンの時代に初めてモンゴルの文字が生まれますが、なぜ日本語をベースにせずウイグル文字をベースにしたのか?
ルネッサンスはモンゴルが持ち込んだ絹や陶器、紙、などは全て東アジアからの伝統文化が当時のフィレンツェに伝えた事と思います!当時は日本の影響がここまでフィレンツェを文芸復興を教え伝えたのが分かります。
へー、そうなんだ!と、全く思えなかったw
源氏系の遺伝子とハーン系の遺伝子を調べて 同じなら可能性はありますよね。
面白い説だ。高木彬光の同趣旨の小説を読んだことがある。しかし兄貴との確執で追われた義経が、風俗習慣も言語も異なるモンゴルの地でその地域の民を統率する能力が有ったのか大いに疑問だ。当時のモンゴルの民は自分たちの首領が義経であることを知っていたのだろうか。知っていたならば100年後に日本に攻め入ったであろうか?肖像画が似ているとは思えない。
源義経を日本人とすると、義経も59代宇多天皇の子孫からの佐々木源氏の11血流の1派になります。宇多天皇の子孫達は、世界中で活躍した日本人の中では断トツに多い派閥と思います。有り余る黄金を持って、日本武士団と一緒に行きました。菅原道真公と宇多天皇。日本の天皇で最初に密教的力を持った修業者の一面も持たれる宇多天皇。空海も知っていたのでは?チンギスカンは海外にも仲間が既にいたわけですね。日本人ネットワークは平安時代には既にあった様です。キングダムも日本人王の話。
本当ですか。
モンゴル人が日本語を話すとき訛らなくスムーズに話ますよね。不思議に思います。日本人と変わらないほどに。中国人はすぐ訛りますし、小さい「っ」を発音できない人多いですもんね!
「しずやしずしずのおだまき繰り返し昔が今と成す由もがな」
静御前が鶴岡八幡の境内で頼朝の前で舞った舞の有名な一節が成吉思汗の名前に似てるのは奇妙な一致ですね。
アイヌが義経神社を大事にして敬っている様子はイザベラ・バードの「日本奥地紀行」に描かれていますね。
シーボルトの伝聞と二人の似絵の類似から。
同じに見えません。耳の形、肌の色、眉の角度、唇。
南北海道に義経神社があり、豊臣秀吉といい、教科書よりすごい人物だった足跡がありロマンを感じます。
謎が多すぎてワクワクします。
有難うございました。
モンゴルに渡った義経が頭角をあらわして認められるようになったのは、弁慶に比べれば華奢な身体つきをしていたのに相撲が強かったからではないかしらと想像します。ガップリ右四つに組んだ状態で、異空間からの力が義経の身体のまわりにおりてきて、強くなる。この現象の繰り返しで、現地の人々は義経に敬意を払い、義経に譲り、義経に従うようになったのではないか説です😊