【猪木への前田の辛辣な言葉】新日本とUWFの業務提携 最初の4ヶ月の緊迫のやりとり 猪木に対して投げかけ続けた、前田の辛辣な言葉とは? #プロレス #猪木 #長州力 #前田日明
新日本とUWFの業務定型最初の4ヶ月の 緊迫のやり取り猪に対して投げかけ続けた 前田の辛辣な言葉と はこのチャンネルは毎週土曜午前10時に 公開チャンネル登録高評価よろしくお願い し ます1983年5月27日高松市民文 センターで新日本プロレスの工業が行われ た83年といえばプロレス会における世界 最強の男を決めるという考えのもに アントニオ猪木が提唱したIWGP構想が 実際にリーグ戦として始まった年で あるIWGPシリーズ第22戦として行わ れたこの高松大会のセミファイナルは アンドレザジャイアント対 そしてメインイベントはアントニオ木対 前田だった当時24歳の前田はこの翌年 から現代に至るまでUWFという3文字を 背負っていくことに なる前田が直接関わったUWFには84年 4月から85年9月の第1次9と88年5 月から90年12月の第2次申請の2つが あるさらにこの2つの間85年の年末から 87年の年末にかけてはUWFという グループとして新日本のリングに上がる 業務定型時代があっ た今回はこのおよそ2年に及んだUWFと 新日本の業務定時代の前半その山場の1つ である26東京体育区間5対5 イリミネーションマッチに至るまでの歴史 を振り返って いく後で俺も行くからお前は先に行っとけ と猪木に直接言われたかどうかは定かでは ないがとにかく前田は第一次UWFに 放り込まれたそして結局井は来ないまま第 1次UWFは1年半後の85年9月 楽園ホール大会でその活動を終え たそしてその3ヶ月後の12月6日の両国 国技間新日本の85IWGPタッグリーグ 戦が開催されていたそして試合開始30分 前の午後6時国技官の特別室に前田高彦崎 藤原 の5人が現れ記者会見が行われ た山本小鉄と前田がコメントした記者会見 が終わるとメインイベントの猪木&坂口 政治隊藤浪辰&木村憲吾が始まる前に前田 藤原木戸高田山崎の5人が全員スツ姿で リングに現れ た猪木たちを前にして前田がマイクを握っ て挨拶をした 1年半UWFでやってきたことが何であっ たかそれを確認するためにやってきまし た業務提携が決まるとすぐにUWFは 新日本に対して対戦カードに関する要望書 を提出したその内容は2つ前田明対 アントニオ猪木藤原義明対藤浪 辰しかしこの要望を受けた新日本側は呆れ 新日本からすれば猪木が新日本のトップで あることは間違いないが前田は本当に UWFのトップなのかという思いがあった 確かにこの時点での前田はまだ実力的に UWFのトップであるという証は持ってい なかっ た第一次UWFでは実力ナンバーワンを 決めるためのリーグ戦が2度行われていた がその最初の優勝者は2度であり2度目の 優勝者は藤原だったので あるこういった状況でもちろん新日本は 猪木た前田をすぐに組むようなことはし なかったそして猪木の首を狙いたいなら UWFは代表者をリングで決めればいいと 答えたので あるそして年明け86年の新集シリーズ ニューイヤーダッシュが始まったこの シリーズでは猪木との対戦権をかけた UWF選手同士によるUWF代表者決定 リーグ戦が行われれ た早速開幕の1.3後楽園では前田対高田 が組まれ11分19秒逆エがめで前田が 勝って いるリーグ戦は1ヶ月に及び終盤に近づく につれて5人は皆消耗していった彼らは チームとして新日本のリングに上がり猪木 を筆頭とする新日本の選手たちと戦うこと を目指しているはずなのだがその前に自分 たちで潰し合いを行わざるを得なくなって い たそして2.5大阪城ホール第8試合で UWF代表者決定リーグ戦の優勝戦前田対 藤原が行われた12分21秒両者リング アウトの後延長戦となり前田がスリーパー ホールドで藤原を落としたが同時に藤原は 強烈なレッグロックをかけていて前田が先 にギブアップ負けとなったこの結果翌 2.6両国では藤原が猪木と一打ちを行う ことになったのであるだが前田ではなく 藤原が相手となると圧倒的に猪木の方が 有利であるもちろん藤原もどちらも途中 からの参加とはいえ第1次UWFと第2次 UWFに所属し第2次UWF分裂直後には 新UWF藤原組を称していたほどなので UWFを代表する選手の1人であることは 間違いないしかしUWFと新日本の イデオロギー闘争両者の対抗の図式という 意味で言えば藤原では焦点がぼやけて しまう藤原は新日本時代に猪木の月人を ずっとやっていて猪木に浸水していたから である実際にこの翌年87年夏のニュ リーダー対ナウリーダーの世代闘争では ナウリーダーの命と同じコーナーに立って 前田と退治したりもして いるだがともかく翌日になり両国のリング 場で猪木対藤原が始まっ たこの試合の猪木は支藤原を見下すような 態度を示し続けた藤原がスタンドのアーム ロックを仕掛けると猪木はとっさに左足で 下腹部を蹴り上げて脱出これを見た前田 たちは反則だと結晶を変えていきり立った さらに藤原がヘッドバッドを放った瞬間 猪木はカウンターで右のナックルパンチを 放ちそこからスリーパーホールドで締め 落として勝利した だがその直後前田がリングに飛び込んだ そして猪木の顎に左ハイキックを浴びせ混 させたのであるそして控室に戻った前田は 激しい口調でまくし立てたアントニオ猪木 だったら何をやっても許されるのかどうし て反則の金的ナックルを称えることが できるんだみんな頭がどうかしてるんじゃ ないのかこんなことが堂々とプロスポーツ なんてないぞレフェリーは一体何をしてい たんだ俺が木戸さんとの試合で金的が理由 で反則になるんならどうしてあそこで反則 取らなかったんだ前田は純粋にプロレスを プロスポーツとして成り立たせるためには ルールを厳格にしていくのが大前提だと 考えていたしかし当時の意気にしてみれば プロレスは前田が言うような純粋なプロ スポーツではなくそれを目指すつもりも なかったそしてアントニオ猪だったら何を やっても許されると本気で思っていたのか もしれ ないそんな猪木に対してこの当時の前田は 辛辣な言葉を投げかけ続けた猪木さんは レスラーとしての気構えがおかしいんだよ 自分がこうやればファンは拍手をすると いう計算だけで試合をやっているんだ楽を してるんだそれをごまかすために風車の 理論だとか受けの美学だとかわけのわかん ないことを言っているだから俺は猪木さん と戦って体で教えてあげたいんだ猪木さん は変わった俺たちに教えてきたことと今 やっていることがまるで違うそんな人に今 の俺は何の思い入れもないねだが前田が 自分の主張を世間に認めさせるためには 新日本の頂点にていを実際に任すしかない 打猪という前田の思いはますます高まって いった2.6両国が終わるとほどなくして 新日本は2月26日から始まるニューウブ ダッシュのカードを発表したその発表に よればシリーズを通して新日本対UWFの 対抗戦を行うことは確定さらに非公式 ながら3.2東京体育館での次の3つの カードも発表された猪木対前田藤浪対藤原 IWGPジュニアヘビー級王者対高田これ にはファンやマスコミが狂気し党の前田 自身も意外に早く対戦が決まったもんです ねと話すなど驚いていたしかし内定したと 思われていた前田対猪木は実際には行われ なかった 新日本の発表はフライングだったので あるニューウェブダッシュの開幕戦の 2.26埼玉熊谷市民体育館大会で猪木が コメントした営業サイドは猪木対前田線を 考えているようだが俺の口からはやる なんて一言も言っていないそれを決まった かのように報道してもらっては困る俺と UWFとの対決はUWF側の代表者が藤原 と決まりそれで決着がついたはずだ藤原が ダメなら次が前田では咲シリーズの意味が ないそれくらいなら最初から1対5でやっ た方がいいそうそう彼らの要求ばかり飲ん でられない よ猪木は前田との一打ちの拒否を表明だが すでに 3.26東京体育館の前売りはほぼ完売し ているもちろん たのは井前田線が発表されたからに他なら ないこの新日本のバタバタに対して前田は 前としてこう言ったこのカードは新日本側 からあったものプロレスをスポーツの王道 に載せる1つのきっかけにしたいと思って いたそれを今更中止とは10年20年後の プロレスを考えるのならファンに不審感を 与えるようなことは絶対にしてははず だ翌27日UWFと新日本の間で話し合い が行われこの石場で前田が改めて対戦要求 をしたがその訴えは通じなかっ た第一次UWFへの移籍を始めとして今 までに前田はどれだけ猪木に振り回されて きたことだろういやこれは前田に限った話 ではない新日本の歴史とはアントニオ猪木 が周囲の人間を振り回す歴史であると言っ ても過言ではないので ある開幕戦から2週間後の3.14鹿児島 県立体育館大会でようやく井期待前田線に 変わるカード変更が発表された5対5 イルミネーションマッチ現代ではそれほど 珍しいとも感じないが新日本ではこれが初 となる試合形式だった そしてこの時新日本側にはこの イルミネーションマッチの鍵を握ることに なる1人のレスラーがいた上田馬之助で ある日本プロレス時代の猪木との革質でも 知られている上田はテキサスなどの アメリカ南部を主戦上とした後帰国後も 一貫してヒールレスラーとして時期によっ て全日本国際新日本と当時の日本の3団体 を渡り歩いていたまたセメントをやらせ たら右に出るものはいないレスラーとして も知られてい たところが85年新日本への2度目の参戦 をした上田は当初はマシン軍団や広斎藤と 共闘していたもののやがて正規軍入りした この正規軍入りは長いキャリアのほとんど をヒールとして活動していた上田にしては 極めて珍しいことであっ た東京体育館の5日前の3.21岐阜産業 間大会猪木と上田がタッグを組んで前田& 藤原組と対戦した上田はグラウンドで前田 の足を抱えて押さえつけながら膝を前田の 顔面に乗せて痛めつけるというテクニック を見せつけたりヘッドロックで前田の動き を止めたりなど随所でセメントレスラーの を発揮して前田を苦しめ たそしてこの試合後に上田が イルミネーションマッチのメンバーに入る ことが発表され たいよいよ3.26当日となったメンバー は次の通りで ある新日本は猪木藤浪木村上田星野神太郎 UWFは前田藤原木戸高田山崎 前田と猪木の先発で試合開始早速前田が 猪木の蹴り足を捉えてキャプチュードを 放つなどしたがすぐに前田は藤原へ猪木は 藤浪へタッチした注目の上田はほとんど出 てこない出てきてもすぐに引っ込む コーナーでじっとしたままである試合開始 から27分後新日本は上田と猪木の2人 UWFは前田木戸高田の3人ここで前田が 上田に襲いかかった前田は上田の胸に何発 も蹴りを入れていったしかし上田はもっと やってみろと言わんばかりの様子で全く 反撃しない後頭部に蹴りを浴びても倒れ ない驚異的なタフネスぶりを発揮していた 上田だったがニールキックをもに顔面に 浴びるとついに倒れたそしてその後すぐに 立ち上がった上田に対して前田が再び蹴り を出したところが上田はその蹴り足を抱え たまま自ら場外に落ち前田をリング下に 道連れにしたので ある観客は安然とした当時は上田の シュートでの強さはさほど認知されておら ずその上田が当時最強と言われた前田の 蹴りを平然と受け切ったことだけでも驚き だったがその上でが上田によってリング下 に引きずり下ろされてしまったので ある上田の新珠作戦によって退場となった 前田はちくしとばかりにエプロンを両手で 叩き悔しがった前田にしてみれば悔やんで も悔みきれないだろうこの日の前田の頭の 中には猪木を倒すことしかなかったはずで あるそして猪木とぶつかり合って3 カウントなりギブなりで負けるのならまだ しも猪木ではなく上田によってしかも思っ ても見なかった場外転落という形で試合 終了させられてしまったの だ上田は前田の蹴りを散々浴びながら最後 の最後で自分を犠牲にして前田を猪木の前 から消し去った上田が観客に与えた インパクトはあまりにも大きかっ たこの試合のトータルタイムは33分38 秒猪木の1人残りで新日本側の勝利となっ た結局猪木と前田の対決は計3度およそ3 分間だっ た試合後上田は前田を見ていると昔の自分 を見ているような気がするんだと言っ た日本プロレス時代の上田はシュート マッチばかりあって試合が面白くないため お客さんはてたことがよくあった当時の 上田は強さが全てだと思っていただから 観客受けしなくても平気だっただが長年 やってきてプロレスに必要なのはそれだけ ではないということが分かったそして場外 神獣という形を取ることによって前田に プロレスは違うんだと体で分からせようと したのだと いうただしこの上田の思いを前田が理解し たかと言うときっとそうではないいや上田 が何を伝えようとしていたかは前田にも 分かっただろうただ前田は上田が伝えよう としていたプロレスに興味がないのだ前田 は元々プロレスをやりたいわけではなかっ たそもそも前田は猪木に憧れてとか プロレスのファンだったからといった理由 で新日本に入門したのではない自分が強く なれるのならプロレスじゃなくても何でも 良かったので あるプロ入り後の彼の根本的な部分での猪 あるいはプロレスとの愛入れなさは全て このことに起因していると言っても 良いこの後の前田は4.29津体区間での アンドレザジャイアント線6.12大阪場 ホールでの藤浪線 両国技館でのど中屋にいる戦線とその後の プロレス市に残る試合を立て続けに行って いくことに なるベストバウトを受賞した藤浪戦の後に 無人島だと思ったら仲がいた今後もこの 試合が日本のプロレス会の革命記念日に なるよう頑張りたいと前田が言ったことは よく知られて いるまた8.5両国ではア木村組を破って ひと共に第2代IWGPタッグ王座につい ていたりもする格闘家ではなくプロ レスラーとしての前田アが最も輝いていた のはこの86年と言っていい だろうだがリング場の前田の正面に彼が 本当に戦いたかったアントニオ木が1人で 現れることはついになかっ た前と猪木の一級地はただ1 試合83年5月27日の 高松12分57秒塩水切りからの体固めで 猪木の勝利前田は猪木に勝つことができ ないまま現役生活を終えたので あるご視聴ありがとうございましたこの チャンネルは毎週土曜午前10時に公開 チャンネル登録高評価よろしくお願いし ます
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1983年5月27日。高松市民文化センターで新日本プロレスの興行が行われた。83年といえば、「プロレス界における世界最強の男を決める」という考えの下にアントニオ猪木が提唱した「IWGP構想」が実際にリーグ戦として始まった年である。IWGPシリーズ第22戦として行われたこの高松大会のセミファイナルはアンドレ・ザ・ジャイアントVSハルク・ホーガン。そしてメインイベントはアントニオ猪木VS前田明だった。当時24歳の前田は、この翌年から現代に至るまで「UWF」という3文字を背負っていくことになる。
前田が直接関わった「UWF」には、84年4月~85年9月の「第1次」(「旧」)と、88年5月~90年12月の「第2次」(「新生」)の2つがある。さらに、この2つの間、85年の年末から87年の年末にかけては、「UWF」というグループとして新日本のリングに上がる「業務提携」時代があった。
今回はこのおよそ2年に及んだUWFと新日本の「業務提携」時代の前半。その山場の一つである3・26東京体育館、5対5イリミネーションマッチに至るまでの歴史を振り返っていく。
「あとでオレも行くから、お前は先に行っとけ」と猪木に直接言われたかどうかは定かではないが、とにかく前田は第1次UWFに放り込まれた。そして結局、猪木は来ないまま、第1次UWFは1年半後の85年9月11日、後楽園ホール大会でその活動を終えた。
そしてその3ヶ月後の12月6日の両国国技館。新日本の「85IWGPタッグリーグ戦」が開催されていた。そして試合開始30分前の午後6時。国技館の特別室に、前田、高田伸彦、山崎一夫、藤原喜明、木戸修の5人が現れ、記者会見が行われた。
山本小鉄と前田がコメントした記者会見が終わると、メインイベントの猪木&坂口征二VS藤波辰巳&木村健吾が始まる前に、前田、藤原、木戸、高田、山崎の5人が全員スーツ姿でリングに現れた。
猪木たちを前にして、前田がマイクを握って挨拶をした。
「1年半UWFでやってきたことが何であったか。それを確認するためにやってきました」
#プロレス #猪木 #長州力 #前田日明
イリミネーションマッチに変更になった猪木の理屈はt正しいとは思うが、猪木vs前田は見たかったよね。
猪木と上田が並んで乾杯してる写真とか歴史を知ってるものからしたら感涙ものだよね。
その数年後猪木とシンがタッグ組んだ時も感動的だったが。
こっちからしてみるとひたすら猪木が前田を怖がって逃げまわった印象しかないわな。
「誰でもいい、俺の首をかき切ってみろ ! 」と叫んだ猪木。
いざ、かき切られそうになると逃げてしまった。
まあ、あの台詞は興行上のものだろうが。
前田は後々、数十年にわたって猪木への恨み節が絶えなかった。前田の゙お家芸゙猪木罵倒。メディアも売り物として扱った。
ところが近年「あれは盛り上げるためのアングルだよ。俺は猪木さんに特に恨みなど無い」と明かした。
猪木・前田、2人とも゙役者゙だよwww
86~87年までの新日本でのUWFの在り方を見ていると、そこそこ良いマッチメーク(ここで言うのは、もちろん試合内容や結果を含む)もあった半面、彼らの希望通りに行かない部分も少なからずあった。
挙げ句に前田はクビ。
長州への顔面蹴りは単なる事故でプロレスでは度々あること(ベイダーの眼に半ば故意に重傷を負わせたハンセンに処分があったとは聞かない。治療代くらいは払ったかもしれないが)。
新日本は厄介者の前田を切るきっかけが生まれるのを待っていたのだろう。
あの時期の前田たちUWFは、ちょうど企業における゙派遣社員゙のようなもので、やはり立場的に弱かったのだと感じる。
雑誌か何かで、新間氏が「猪木前田戦は自分が回避させた」と書いてあった。
理由はシュートになった際に猪木が何をしてがすか分からないから、と。当時は信用せず単純に猪木敗北を避けたと思っていたが、後の猪木天龍戦で天龍の指を折ろうとした事を知った時には、あり得なくもない、と、、、。
1986年のイリミネーションマッチ時、上田馬之助の年齢は46歳、前田日明の年齢は27歳
上田選手のプロレスラー人生としては、最後の輝きと言えましょう
その後、1990年代になると、上田選手はインディーズ中心に活動していましたから……
上田馬之助の証言。
①日本プロレス時代、道場で一番強かったのが 猪木さん。
②前田のモーションの大きい遅い蹴りなんて。
③全日本プロレスは女に牛耳られた団体。
④日本プロレス クーデターで猪木さんを裏切ったのは自分ではなく、猪木さんを裏切ったのは 馬場。
世代交代を嫌った猪木😢
後継者を指名せず、その煽りを喰らった前田、長州。
藤波は知らん😅
純粋なスポーツなら佐山についていかないと。アングルでしょ
イリミネーションマッチのときのブックはどうなってたのかね。上田の前田との心中はシナリオにあったのかな?
アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか!
⬆️当たり前だね🙂
この頃の前田の発言や行動によって、猪木の神がかっていたヴェールが1枚ずつ剥がされていくのを感じていた。「いつ何時誰の挑戦でも受ける」と言っていた猪木が前田の挑戦は最後まで受けなかった。
実際に試合をしていたら、どんな試合になったのか?セメントになったのか?それとも目を背けるようなラフファイトで前田を葬ったのか?
とにかくこの頃の前田にはUWFへ勝手に島流しにされたこともあって、めちゃくちゃ危険だったことは間違いない。
個人的にはこの頃の前田が一番好きなのだが、その前田の鬱憤が猪木ではなく、後に長州にも向いてしまうとは思ってなかったが。
猪木は許されなくてもやる。
私は当時それが許せなくて猪木と新日に見切りをつけました。
上からしたら使い辛い選手だよなあ前田さんは。でもだからこそ狂気を感じるし色気も感じる。こんな闘いばかりしてたらそりゃ伝説になるよ。
ただ、永田さんをどうのこうの言う資格だけは無いと思うけどね。
UWFが親日に登場した時点で旧UWF時代に藤原、木戸に一度も勝てなかった前田がどうしてUWFのエースなんだろうと当時思いました。
新日本の実現出来ないカードを゙発表して置いてチケットを゙売る作戦は良くやっていたな、大阪城ホールでのアンドレ対ブロディとかね
アントニオ猪木なら何をやっても許される。自分が主役になれる団体を自分で作ったんだから。
主役になりたいなら自分で自分の土俵を作らないと。
みんな猪木を観にきてるんだからね。
前田もアングルに協力してたがUに移籍させられた事を根に持っていたからいざとなると何するか解らない怖さを猪木は感じてたろ
イリュミレーションマッチの前田さんの入場は、もみくちゃの伝説ですよ😃大盛りあがりです
何をしでかすかわからない、猪木と前田は似ている。だから、猪木は前田を避けた。馬場が猪木を避けたように。
前田が居たからこの頃の新日本は熱かった。
前田vsブロディー戦のカードが発表された時は相当感情が高ぶったが・・・
前田日明との一騎打ちを、ついぞや実現させなかった新日本の総帥アントニオ猪木 (※前田の若手時代は除く)。
船木誠勝と一騎打ちをし勝利を収めたが、船木のシュート志向に対しては「5年待て」とお茶を濁したUWFのエース前田日明。
近藤有己と一騎打ちをし、敗れたパンクラスのエース船木誠勝 (※前年は勝利していたが)。
プロレスから格闘技へ移りゆく過程で繰り返さた、似ているようで似ていない風景。
そうはいかなかっただろうけど、あのままロープワークなんかを拒絶していたら面白くなったかも。代表者決定リーグから両国の猪木-藤原を経た最初の後楽園における藤波・健吾・越中VS前田・高田・山崎は「新日ストロングスタイル完全崩壊の日」と書かれましたね。ノーTVだったので観た人にしか判らないでしょうが。
当時、上田馬之助の強さには唖然とさせられました。
また、この後猪木さんは前田対策でディック・マードックを起用。
対前田戦を逃げてたとしか思えないです。
アントニオ猪木と云うプロレスラー、新日本プロレス観てプロレスファンの成った。当時のプロレスファンはガチだと思っていた。だから、ゴッチイズム、スパーリング、猛練習する、小鉄、藤原のしごに耐えた、前田達UWFに期待した。馬場さんにしたら、エンターテインメントだから、魅せるべきでは無いです云う、理論は関係無く。エンターテイメントのプロレスをより格闘技、プロスポーツとして魅せようと考え、猪木自身がわ行くと言って、送り出され若くしてトップに成らざるをえなかった前田からしたら、シングルで戰って。真意見たかったと思う。猪木は前田の性格、実力が怖かったから避け続けたのだろう。