《田中英道》「ヤマトタケルの新解釈」第59回日本国史学会連続講演会 9月22日拓殖大学》 (2018/09/22)

《田中英道》「ヤマトタケルの新解釈」第59回日本国史学会連続講演会 9月22日拓殖大学》 (2018/09/22)



田中英道「ヤマトタケルの新解釈」
第59回日本国史学会連続講演会 9月22日拓殖大学

~ 日本国史学会 第59回連続講演会 ~
【日時】 平成30年9月22日(土)
【会場】拓殖大学文京キャンパス
【主催】 日本国史学会(代表理事:田中英道東北大学名誉教授)
kokushigaku.com/

Total
0
Shares
33 comments
  1. 田中先生、いつも拝聴させて頂いております。大変貴重な知見を頂き真に有難うございます。蝦夷の「夷」のように「弓」など形象の中に重要な意味を見抜かれるお目、真に痛快です。これに関連して、素人考えながら私が気が付いた一例をご紹介させて頂く無礼をお許しください。「昇る」という文字は「升」の上に「日」があります。「升」の形は神社マークを崩した鳥居の形と仮にすれば、日が鳥居の上にまさに「昇る」と見れないでしょうか。釈迦に説法かもしれませんが、この考えにはある観察があります。日がもっとも高く見える鹿島神宮の夏至には、鳥居から続く参道の軸線上の高天原方面から日がまさに「昇り」、イザナギとイザナミの筑波山のほぼ上に沈みます。鹿島神宮はそのような地理的位置にあられるようです。なお、鹿島神宮と筑波山までの間には、熊野神社、行方市(香取市ではなく)の香取神社、かすみがうら市の鹿島宮が綺麗に並んでおります。

  2. 凄く納得がいきました。東日本目線で記紀を読むなんて思いつかなかったです。
    中途半端が嫌いな潔癖症が多い人たちが東の果てを目指して移動するなら、関西が定住地とは思えませんから。
    有難う御座いました。

  3. 関東 東北 北海道が本来の大和民族の居住地であった。その昔朝鮮から渡って来た 否 逃げて来た民が居住した土地の首領が天皇の先祖であった。本来の日本人は中部地方の東方 北方 すなわち 東北 及び北海道が本来の日本人であった。

  4. 天皇家という言い方はやめるべきです。皇室は家ではありません。家系も違います。皇統です。

  5. 鹿島 鹿児島 日向 大和 は信じがたい

    春日と石上は関東関係ですが
    住吉 宗像 宇佐 築杵 熊野は九州西国
    熱田 浅間 諏訪は中部
    何でも関東と言いたいだけ
    何でも関西と言いたい輩と同じ

    蝦はエビを食べるではなく
    エビのように腰が曲がった事

    エビを取るのに弓を使いますか?

    縄文の中心が東国である事は賛成
    それを説明する方法は賛成できません

  6. 鹿嶋神宮が伊勢神宮より古いのは知らなかった。もっと素晴らしさを宣伝すべきである。
    次に、最近のDNA遺伝子研究から沖縄県人・本州人・アイヌ人は同じご先祖様で縄文人であると分かって来た。従って、アイヌ人は先住民族でも無く、途中で他所から渡来した異民族でも無い。

  7. 日高見は漢字を変えて北上となって岩手県北上市や宮城県北上町そして北上川になってる。

  8. ”蝦夷”の”夷”は”弓”+”大”(”人”ではなく)とみることができるのではないか?とすれば、これには強い弓を使いこなす戦闘能力の強い人々という、攻撃された側の畏怖心が見て取れる。だから関東から九州に征伐に行って成功したのだろう。

  9. 田中英道先生におかれましては、一度ヲシテ文献をご検証いただきたいと思います。

    タカマノハラ(朝廷)がヒタカミ・東国にあったことが書かれています。

    カシマカミ(=タケミカツチ・鹿島神宮祭神)、カトリカミ(=フツヌシ・香取神宮祭神)が

    アマテルカミと同時代の歴史上の人物として記述されています。

    ホツマツタエ・ヲシテ文献は

    池田満氏の『定本〔ホツマツタエ〕―日本書紀・古事記との対比』などの研究によって

    日本書紀・古事記の原書であることが立証されています。

    12代ヲシロワケ景行天皇58年までは

    ホツマツタエが日本書紀に先行する我が国の正史だと思います。

    帰化渡来人の影響で漢字国字化する時代以前の縄文・弥生時代の歴史が具体的に記されています。

    日本書紀・古事記は神話化され、削除・改竄改悪されています。

    ヲシテ文献には、ヒタカミの用例が41箇所記述されています。

    ヒタカミは日本の東北地方・奥羽諸国の総称とされ、

    初代アマカミ(縄文・弥生時代の天皇号)クニトコタチの御子タノミコトが

    この地に派遣されて栄えたようです。

    (ちなみに北海道南端はカツシマ・カソシマと呼ばれていたようです。)

    ヒタカミはタノミコトから代々タカミムスビを名乗って7代まで続き、

    この後はヒタカミノカミとして14代を重ねて漢字国字化時代まで続いたようです。

    ヒタカミの開祖・タノミコトはクニトコタチの教えを受けて、

    栽培に適した木や草の品種=キクサ(木草)を土産(ツト)に移植して

    生活向上をもたらした。

    (縄文遺跡でクリ・クルミ・大豆などの栽培品種が発掘されてきました。)

    長い年数を計るマサカキは今の多賀城市付近のヒタカミのミヤに植えられたが

    これは朝廷タカマノハラと、ヒタカミだけだったという。

    タノミコトはキノトコタチと讃えられ、

    その子アメカゝミカミが遥か遠方の九州の地を治め、

    3世孫にあたるイサナギが7代目のアマカミ(古代の天皇号)を継承したことも書かれています。

    ヒタカミの宗家5代目タカミムスビ・トヨケは

    気候変動で食糧難に困窮した国政を立て直し、

    娘イサナミをイサナギにめあわせ、7代目のアマカミとし、

    その皇子8代目アマカミとなるアマテルの教育を行った。

    8代目アマカミ・アマテルヲヲンカミは

    富士山のヤスミヤ、丹後のアマノマナヰ・マナヰノハラ・アサヒミヤ、イセの元宮(伊雑宮)・ウヂミヤ(伊勢神宮)に宮遷しした。(今の元伊勢)

    ハルミヤ(皇太子)オシホミミは、9代アマカミに即位するにあたり

    (恐らく東北の震災で疲弊した)ヒタカミにミヤコを遷した。

    ミヤコの名をタカノコフという。

    7代アマカミ・イサナギ・イサナミのミヤコ、

    近江のタガ(多賀)を引き遷したのが由来。

    初代オオモノヌシ・オホナムチ・クシキネ(記紀に言う大国主)は

    イヅモ(出雲)のクニカミとしての豊かさに慢心して朝廷を軽んじた。

    右の臣(ツルギのトミ)でもあったたため、

    7代目タカミムスビからの度重なる詰問使派遣の末、

    右の臣解任のイクサ(軍隊)を派遣される。

    これをカシマタチという。

    右=カ、シマは締りの意でトミ(臣)を指し、タチは解任を意味する。

    オホナムチは息子のクシヒコ・コトシロヌシ(のちの恵比寿神)から

    朝廷に降伏してイヅモを去るように進言され、

    結果、オホナムチはツガル(津軽)へ遷し国となり、ツガルを開発したオホナムチは ツガルキミ(カルキミ・顕国魂神(うつしくにたまのかみ)岩木山神社祭神/青森県弘前市百沢)と讃えられる。

    (ホツマツタヱの記述によれば、記紀の解釈のように天孫が国津神の国土を奪ったのではないことがわかる。)

    そして9代アマカミ・オシホミミから

    フツヌシはカシマタチ(右の臣解任使)の長官としてカトリカミの褒め名を

    タケミカツチはカシマタチ(右の臣解任使)の副長官としてカシマカミの褒め名を

    それぞれ与えられた。

    タケミカツチは9代アマカミ・オシホミミの右の臣として仕える。

    9代アマカミ・オシホミミは寿命が尽きるとき、

    今の箱根山山頂に籠り崩御され、ハコネカミとして祀られる。

    (太古のヒタカミの古名ハコクニに因んだか。)

    10代アマカミは

    兄=アスカヲキミ・アスカホノアカリ・テルヒコ と

    弟=ニニキネ・ワケイカツチ・ハラヲキミ・キヨヒトの

    2朝廷が並立する状況となる。

    10代弟方ニニキネは筑波山を手始めに

    アマテルカミの膝下イセで灌漑新田開発事業を進めて許可を得て、

    アマノコヤネ、クシヒコ、タチカラヲを従え、

    全国を巡幸してタミの生活向上を指導する。

    関東一円、山陰道・北陸道・山陽道・九州を巡って開発した。

    京都盆地の開発は雷の害を防ぎ、水を役立てるために

    雷を火と水に分けてコントロールするため

    火をアタコ(愛宕山)に、水をキフネ(貴船)に祭った。

    このことをアマテルカミが褒めてワケイカツチの名を与えた。

    (上賀茂神社の祭神は賀茂別雷神でニニキネのこと)

    ニニキネは九州のタカチホの山(霧島山)にて亡くなる。

    霧島神宮・霧島峯神社が瓊瓊杵尊を主祭するのはヲシテ文献通り。

    その後ヒタカミと朝廷の間が次第に疎遠となってゆく。

    12代アマカミ・ウカヤフキアワセス・カモヒト崩御、

    初代スヘラギ・神武天皇のヤマトウチ(東征)を機に

    ホツマクニ(東国・ヒタカミ)からミツホ(税)が納められなくなる。

    欠史八代説は反日プロパガンダだと思います。

    ホツマツタヱには第2代綏靖天皇から第9代開化天皇まで、

    実在の天皇としての事績が書かれています。

    11代スヘラギ・イクメノキミ垂仁天皇は、

    日本国の創始者クニトコタチのトコヨクニ(日本の最初の国号)の遺風が濃く残る

    ヒタカミにタジマモリを遣わした。

    ヲシテ文献時代末期、12代スヘラギ・ヲシロワケ景行天皇の御代に、

    韓半島情勢の緊迫から挙国一致の必要性に迫られて、

    ヤマトタケ(日本建尊)のヒタカミ遠征がなされた。

    (ちなみにヤマトタケは兄オオウスを殺していない。帰化人・古事記の捏造・侮日と思われる)

    この時代にヒタカミには誤解からくる蔑称ヱミシの名が起った。

    (つまり、ヱミシはヤマト民族ということになります。)

    以上の説は池田満先生の

    『ホツマ辞典―漢字以前の世界へ』を主に参照しました。

    以上のことなどから、田中英道先生の御説を裏付ける記載が多くあります。

    『定本〔ホツマツタエ〕―日本書紀・古事記との対比』によって

    ホツマツタエ・ヲシテ文献が日本書紀・古事記の原書であることはほぼ間違いないと思います。

    一度ヲシテ文献をご検証いただきたく、お願い申し上げます。

    (アイヌ語が日本語ではない。アイヌ民族は先住民族ではないのですね。アイヌ文化の喧伝は反日プロパガンダだと思います。)

  10. 桜井光堂著「古事記の探求」によると、古事記は天孫族の歴史の始まりを、伊邪那岐と伊邪那美の結婚による、
    九州の豊国、筑紫を領土とする伊邪那岐帝国と、山口の周防、安芸を領土とする伊邪那美帝国の連合帝国誕生とする。
    当時、大勢力は奈良にあった大倭帝国で(古事記では詳細不明)、これが、田中先生の言う関東・東北から進出した縄文人勢力と理解できる。
    伊邪那岐・伊邪那美連合帝国は大倭帝国から淡路島と四国を奪い、大八洲という領土宣言を行う(国生み)。

  11. 初代天皇の父親のウガヤフキアエズも、73代続いた醜名だった様ですね。
    この歴史を消して、神武天皇から始まった事にしてしまった様です。

  12. 田中先生、一貫して関東にスポットを当ててくださって、常陸人間としてとても嬉しいです。中学生の頃から、歴史が好きで熱心に授業を聞いていましたが、ずーっと疑問がありました。歴史の出来事の中に関東、東北話がほとんど出てこなくて、常に名古屋以西特に京都奈良が舞台となっていた事が疑問でした。なんか関東以北は無かったかのように語られて、何かあるなと。そうです、律令制とと共に中国からたくさん関西に移民して来た勢力が歴史を書いて来たと思っています。そんな中この前の縄文展見たら、出土先関西がすっぽり抜けているではありませんか!やっぱり!です。元々居た日本人をエミシなどと行って追いやったのです。常陸には風土記もあり、御岩神社もある、海幸山幸の自然。日高、守谷、伊奈、玉造、水戸には高天原という地名あり古墳も沢山あります。テレビに出てる関西の人がやたら東京、東京とこだわるのは遺伝子レベルで引け目を感じているからだと思ってます。関東人は全く関西など話題にも意識にもないです。それは元々こちらが本元だからですね。

  13. 天香具山はどこにあるんですか?金が出て銅が出て鉄も出る山です。倭王権は天香具山をめぐって血みどろの戦いを繰り返したわけですが、、。それに鉄です。鉄器は当時最先端の兵器であり農機具でした。関東から弥生期の鉄器は出土していますか?出土分布は圧倒的に九州です。奈良県からもほとんど0です。いわんや関東などかけらもありません。魏志倭人伝の平壌から倭まで12000里という記述も無視されるのですか?周の時代の里ですから1里は67mに過ぎません。700kmから800kmぴったり平壌から福岡県田川郡に当たります。現地に足を運んでください!それと地震の歴史、縄文海進、万葉集、現地伝承、神社史等を総合的に勘案しないと倭は浮かんできません。素人ですが

  14. 話しが下手くそ過ぎてだれてしまう!伊吹山での神の化身はオオカミでは無くイノシシですよ!

  15. 田中先生を日頃尊敬していますが、どなたかが言ってるように喋り方が下手ですね。特にこの講義は下手くそでイライラしてきます。

  16. 九州の日豊本線沿線の海沿いに前方後円墳が複数あったのを、見晴らしを良くするために壊したという話を聞いたことがあります。それが何基あったのかによっては、前方後円墳の数が多い県が変わってくると思います。

  17. 小碓命は兄大碓命は殺していません。大碓命は美濃に領地をもらい
    各豪族の祖となったっと日本書紀にも古事記にも記されています。景行天皇には80人の子供がいて殺した兄は不明ですが、大碓命で無いことは確かだと思います。

  18. 神武天皇の時代というのは、おそらく「記紀」のように紀元前7世紀頃だったととは思うが、この「記紀」は、それから1000年以上経てから編纂されたもの。だから「天孫降臨」の神話について、「そのまま解釈する」というのは、やはり無理があると思う。
    紀元前7世紀というとメソポタミア地域では、旧約聖書のイザヤ書に書かれているように、
    アッシリアの勃興の時代(「失われた10支族」の発生時代)だし、中国なら春秋戦国時代(孔子の150年くらい前の時代)、インドなら釈迦の時代なわけで、日本以外では「神話の時代」ではないことは肝に銘ずべきことだと思う。

  19. 蝦夷は大和目線での言葉ですね!
    蝦夷は素晴らしい国です。大祓い祝詞でも出てくる大倭日高見国ですね。
    えびす、事代主、国津神系、最初から日本にいた縄文先住民と思います。
    東北関東蝦夷から佐伯部やその他の部族などの国造を大和につれてきた流れですね。
    佐伯部といえば大伴氏とも関係ありますね。
    古事記、日本書紀も原本を大和主体で編纂されてるので、真実とは言えない部分もありますね。

  20. 田中さんの「本当の日本史と日本人の歴史を表に出す探求学」に、多いに期待しています。

    伊勢神宮とは、内宮には天孫族の一方の天照大御神であり、外宮にはその子供の豊受の神が祭られています。
    豊受の神はギリシャでは「ホルス」であり本来に近い発音は「ほうじゅ」だと思います。
    内宮の横と外宮の横には母親の月読み宮が付き添って構えています。
    内宮は太陽神ラーであり、月読み宮はヤエさんです。

    この事はスサノオの歌に隠されています。
    「八雲たつ、出雲やえがき つまごびに」の歌を「原文の漢字で、逆(後ろ)から読むと」その隠されたもう一つの真意が(同じ漢字の音、訓と文章の切り方で)何重にも込めらられています。

    その一例は
    「エンキがヤエの祖。(先祖の意味で恐らく親)
    琉球、月がヤエ。
    自(自分)備後、マツキがヤエ、モーゼ。
    ツタ(ツタンカーメン)も来や。」

    つまり、ヤエさんは月の住人であり、地球の拠点が琉球であり、広島の備後のマツキ町である事。モーゼでありツタンカーメンも日本にやって来た。と表現しているのです。
    ヤエさんは龍だとも書いています。
    欧米の蛇とは似て非なるものですよ。

    それと、「いろは歌」を同じく漢字の原文で音読み訓読みを交ぜながら日本語で意味が解釈出来る様に全文を読んで見て下さい。
    そしてそれとは別に「以」から横(左へ)読んで見て下さい。
    また、別に「以」から角を「之」も含めて右回りに2週。別に「以」から左回りに1週で「止」までと続けて一番下の行を「止」から左に読んで見て下さい。

    イシシス(神)ケイトの末。
    イエスの死とかなくて死す。

    因みにこの作者は題名を逆から読めば理解出来ます。
    つまり、ルシャナ大仏などではなく帝の運慶でありケイウン(ケイン)なのです。
    この方こそ、救世主イエスだと思います。

  21. 関東が遅れた国ではなくて日本に新たに来た人々が関東に来て彼らが日本に同化はしたが、関東が大和から違ってきてしまったのではないか?

  22. 高天原が日高国と言われて関東にあった。
    古墳の数が関東の方が関西より多い。
    蝦夷、えみしは縄文人を表している。
    これが田中先生の言われてる事なんでしょうか❓
    そうなると神武天皇以前の皇室の起源、高天原は弥生、若しくは縄文時代の関東だとなるのでしょうか❓
    古墳の年代測定は出来ないものでしょうか❓
    もし、縄文時代に皇室の起源があったなら凄い事ですね。

  23. 小碓が大碓を殺したとは何を言っているかと言う事ですが、当時九州には、北九州には邪馬台国があり、南九州には熊襲国があり、争っていましたが、北九州の邪馬台国が南九州の熊襲国に負けて畿内に逃げていったと思われます。畿内に東遷した邪馬台国が大碓で畿内に残った熊襲国が小碓ではないでしょうか。その後九州に残った熊襲国のヤマトタケル即ち武内宿禰即ち小碓が応神東征して畿内の邪馬台国大碓を破り天下統一したのではないでしょうか。

  24. 「江戸」という地名の由来を、「蝦夷への入り戸口」という意味から捉えられませんか?
    未だに「江戸」の由来に定説がありません。「海への入江」など6説がありますが、いずれもピンときません。
    今回のお話と「蝦夷」とを関連させてみました。

コメントを残す