田中英道「聖徳太子と蘇我氏問題、再考 〜聖徳太子薨去1400年シンポジウム〜」日本国史学会 令和4年4月23日 日本経済大学神戸三宮(2022/04/23)

田中英道「聖徳太子と蘇我氏問題、再考 〜聖徳太子薨去1400年シンポジウム〜」日本国史学会 令和4年4月23日 日本経済大学神戸三宮(2022/04/23)



田中英道「聖徳太子と蘇我氏問題、再考」
~聖徳太子薨去1400年シンポジウムより~
令和4年4月23日 日本経済大学 神戸三宮キャンパス

【シンポジウム情報】令和4年4月23日(土)開催 ~ 日本国史学会 聖徳太子薨去1400年シンポジウム ~(日本経済大学神戸三宮キャンパス)

◇主催:日本国史学会

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◇田中英道ホームページ | 「美の探究者、歴史と思想を語る」
http://hidemichitanaka.net/

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  1. 以前は田中先生を支持して居ましたが、これも日本人洗脳と考える様になりました。日本人は日本人で、正当ユダヤ人など関係無い!

  2. 高校がキリスト教で、毎朝礼拝、週イチで聖書の時間がありました。知れば知るほどキリスト教徒にはなれないと実感しました☺

  3. 石井公成先生の聖徳太子本を読んだら、すっきりした。牽強付会の論理もなく、聖徳太子の本来の姿が見えてくる。

  4. 私が調べた訳ではないので事実かどうか知りませんが、現在中国から日本に来ている人は二百万人を超えているという話を耳にしました。日本は占領される訳がないという先生のお話には承服しかねます。過去がそうだったからと云って、未来もそうであるなどというお考えは安易すぎませんか。日本はお釈迦様ではありません。孫悟空のように幾ら暴れてもお釈迦様の掌の上という訳には行かないでしょう。

  5. 聖徳太子がなぜ厩戸皇子と言われるのかずっと不思議に思って答えを探していましたが、私は川崎真治先生の説明で納得しましたし真実だと思っています。多くの疑問を解くことが出来ました。

  6. いやあ、今回は一気観でした。
    どこかに必ずや真実性の殊に高い箇所があるに違いないからだと思います。
    これからもご教導宜しくお願い致します!

  7. 弟子が書いてる時点でフィクションですね!かなり盛ってますね!歴史上の偉人は。

  8. この人物に説明して欲しい事は、朝鮮半島南部に大和王権と同じ方式の前方後円墳があるが、どう見ても蘇我氏の時代に朝鮮半島南部の日本勢力圏が消えています。
    考古学的な証拠として500年代半ばに吉備地方で踏鞴製鉄が始まるが、これは任那日本府がなくなったと推定される時期で、蘇我氏が外交的な権限を得て仏教を入れた時期に当たります。
    つまり蘇我氏と言うのは完全に大陸にいた景教などの勢力で、日本を侵略する為に大和王権を騙していた勢力で、大和朝廷の成立と共に排除されたと考えられるのです。
    そして蘇我氏と秦氏は自分達に都合よく律令制度を作っていたので、大化の改新後に中大兄皇子と鎌足などが適切に作り替えて、701年に大宝律令が制定されたと思われるのです。

  9. 天皇殺害は、崇峻だけではなく、もう1人いらっしゃいます。
    伊藤博文による孝明天皇殺害事件です。
    天皇殺害の犯人が日本の首相になって展開してきたこの国の歴史と称するものに、深い疑問を感じております。
    田中先生のご見解をお聞かせいただきたいと思います。

  10. 先生のお話すばらしいと感じますが一つだけ、キリストは復活したが転生したわけではなく、キリスト教などの唯一神を信じる宗教はたいていの場合転生は認めておらず、土葬するのは最後の審判の日に向けていると聞きます。従って神の子であるキリストの復活はあり得るが信者の転生は認めていないはずで、神以外の存在が復活することをユダヤ教徒もキリスト教徒も肯定していないはずで、転生は認めていません。従って、蘇我が我よみがえりの意味だとしてもキリスト教徒やユダヤ教徒ではなく、その事を理由に蘇我氏がユダヤ人の子孫というのは違うと思います。

  11. 無宗教は昔は叩かれましたが高齢者になり喜ばしい事を先生のお話しをお伺いし再認識しております。
    有り難うございます。先生のお話しを日本中に覚醒される事を望んでおります。

  12. いつも有り難うございます。
    聖徳太子を祀る斑鳩の宮(法隆寺)は斑(マダラ)の鳩と書きます。
    斑(マダラ)はキリスト教のマクダラのマリアの意味を内密に内包した名前です。
    キリスト教では不貞な女性として扱っていますが、彼女等のキリスト教が毎度ながら操作するアベコベの手法だと思います。
    明治17年に至るまで500mもの布で隠されていた久世観音像とされる像こそ本物の聖徳太子、もしくは太子の母親か妻が斑鳩つまり「怒る我」の可能性が高いのではないでしょうか。
    その証拠に、聖徳太子とその両側に立つ2人の肖像画がありますが、太子の身長が圧倒的に高く描かれています。
    夢殿に隠されてきた久世観音像は180センチあり、それを肖像画と対比させると両側の2人は120センチ程度の換算になり、これは子供の様に見える大人だとすれば、この2人の小人が太子の側近的な人物と考えられます。
    一般に知られる法隆寺の「太子が子供の時の像」は太子ではなく、この小人が成り代わった可能性が高いと思います。
    そして、夢殿の久世観音像が太子である事を裏付ける「秘密の暴露」が、この像が両手で持つ珠(玉)です。
    皇室が持つシンボルの勾玉(曲玉)ではないでしょうか。

    また、法隆寺の名前はいつ誰が付けたのかで解釈が変わりますが、ホールツと法隆寺は関連がないとは思えませんが、太子が子供の頃とされる像の顔ははたして日本人の顔でしょうか?

  13. 令和4年9月1日
    推古天皇も聖徳太子もなぜ、蘇我馬子を罰しなかったのか。何か、違う歴史が存在するのではないか。
    推古天皇は仏教について、異国の文字は借りるが思想はいらない、異国は私心が先に立つから、必ず大和言葉でよむようにとおっしゃっている御宸筆があるようですが、聖徳太子と一緒に仏教を栄えさせた推古天皇と矛盾します、聖徳太子も神道をまもりたい物部守屋を馬子と一緒に滅ぼしてしまいました。仏教伝来のその当時、何が本当に起きていたのか、真相はどうでしょう。

  14. 鹿島は、日が昇る処で有り鹿島から鹿児島へのお話し文字を観ますと児童の児を使ってますね!ですから鹿島の次で有る事ですね!
    驚きで有り先生のお話しは興味深く拝聴しております。有り難うございます。

  15. 聖書とカトリックと違いますが先生のキリスト観はカトリックの世界だったように見えます。ご一考を期待します。

  16. 失礼ですが先生は閉所から離れたトリックの経験岳でキリスト教をご存じのように感じられます。研究熱心な先生ですからいずれ到達されると信じます。つまり神道は一神教で有ることが繋がるときよくおっしゃる「繋がった」と心情抜きで納得されると思っています。もちろん先生の研究に感謝しながら余生を楽しみに生きている者です。

  17. 大学院生助手のコンピューターによるパワーポイントプログラムで 先生のレクチャーを入力して、おっしゃる事をもっと画像化すれば もうちょっと迫力あるポイントによる説教となる事請け合います。画像を並べることで話が早くなります。

  18. 神は人なりは分かります。お釈迦さんはイエスでモーゼでもありました。アッラーの神は聖徳太子がアブラハムであるムハンマドに霊示?を下ろしたものです。今は幸福の科学の大川さんです。八百万のあいだでモーゼの時に大きな亀裂ができたための歴史です。ご活躍を期待します。

  19. 蘇我氏、法隆寺(の釈迦三尊)を、景教(東方キリスト教)と直結させる歴史観の田中さん、とんでもない勘違いというか
    頑冥不霊な「反ユダヤ」思想を露出したにすぎない、と思う。「懺悔なきとんでもない仏教至上主義歴史観」だ。

  20. 「蘇我氏は日本をキリスト教化しようとした。」
    もはや、妄想狂だよ。
    田中「『蘇我』は、蘇我氏が景教信徒(キリスト教徒)、(田中さんが言う『ネストリウス派』はカトリックによる蔑称です))だったから、キリストの出来事を真似た。」

    キリスト教徒は、自らを「イエス・キリスト」に例えるなんてこと絶対にしません。

  21. 田中さんらチャネル桜の面々は総じて、表向き皇室賛美だが、古神道侮蔑、一神教侮蔑、
    とにかく反ユダヤ、反古神道思想で、「チャランポラン八百万崇拝、神仏混合」の無節操信仰徒が多いです。

    チャネル桜の重鎮とされる加瀬英明さんは「無宗教」、ノータックスヘブン・ベネチュアの国際金融資本シンジケート、グローバリズムの「黒い貴族」の雄とされる、サボイ家騎士団の日本支部の団長だった人。
    第二次世界大戦時は、サボイ家の召使的存在のデルバンコ(BIS:国際決済銀行の主要幹部連)に命じて、ナチス・ドイツのユダヤ人ホロコースト運動を指導させた連中です。第一次世界大戦での戦後賠償金を払えなくなっていたナチス・ドイツ、ヒトラーに「賠償の財源はユダヤ人から巻き上げろ」と命じてです。
    尚、そのときのナチス・ドイツの財務大臣はヒャルマル・シャハト。長年、米民主党のシンクタンクとなっていた(いる)ブルキングズ研究所から出向し、ユダヤ人財源の戦後賠償捻出政策を指導した奴。戦後、ニュールベルグ裁判で、ナチス政権の大臣で戦犯にされなかったただ一人の人物。ブルッキングス研究所は、米大陸を発見し黒人奴隷貿易などで巨万の富を蓄えた、やはり「黒い貴族」のキャボット家の直営機関。キャボット家は、ブッシュ家とともに、UNITED FRUIT社(かつての黒人奴隷農園」を共同経営していて、各軍需産業の大株主です。つまり「ネオコン、ディープステートの奥の院」です。

    田中「秦氏などユダヤ系人の特徴は自分たちを隠す。それがユダヤ教人などの特徴。」
    大嘘。
    秦氏は、今でも宮中で雅楽隊員として天皇家のために「秦氏の子孫」であることを表明して、誇りをもって仕事してますよ。彼らは祖先の弓月君の渡来にあたって救済してくださった応神天皇様、日本の皇室に対して1700.年以上も、その恩義を忘れず、祖先が受けた恩を忘れず、皇室の弥栄のために縁の下の力となって努力してます。
    それこそが「旧約聖書」での教えを守る姿、「あなたがたは、毎日、決して、灯を落としてはならない。親、子、孫と、毎日、その灯を継承していかなければならない。」の戒律を遵守する真の景教徒の姿だと思いますね。景教(東方キリスト教)の特徴はユダヤ教の伝統を色濃く継承したキリスト教だと言わています。能、相撲の関係者らもその一派の人たちでしょう。
    田中さんら、とにかく「チャネル桜」一派は、反ユダヤ、反古神道で、「チャランポラン八百万崇拝、神仏混合」の無節操信仰徒が多いです。

    神道派は、正々堂々と「誅殺」をやり責任をとる。「嘘も方便」の仏教は責任回避を図って「暗殺」「犯人隠匿」を好む。
    京都で最古の寺院は秦氏が建立した広隆寺(弥勒菩薩半跏思惟像。像部門で国宝第一号)です。指印が三位一体を表してることは、シルクロ-ド一帯に見られるキリスト像での特殊な指印とまったく同じです。

    嵐一ちぃあ
    時の秦氏の頭は、聖徳太子が側近にしていた秦河勝(正真正銘の景教徒・東方キリスト教)でした。
    秦氏こそが、応神天皇時代に渡来した「弓月君」の子孫です。
    弓月国とは、現在の、イリ河沿いの新疆ウィグル(東トルキスタン)出身。
    聖徳太子について、飛鳥時代の歴史について、言うとき、秦氏(秦河勝)を避けて話す田中さん、
    仏教至上主義、反ユダヤ教思想で肝腎なことを隠し偏向歴史観を振り撒いてるだけ。
    田中さん「聖徳太子は仏教を固守したから、キリスト教の蘇我氏によって殺された。」(ダブルトリックの典型)
    田中さん「聖徳太子は仏教徒だった。」という証拠は何ですか?
    田中さん、聖徳太子は、何故、蘇我氏の意思に反して「敬神の詔」を発し、景教徒(東方キリスト教)の秦河勝を側近にしていたのですか?

    真相:
    聖徳太子は、世界ではじめて「信教の自由」を保障した宰相、偉大な政治家だったのです。
    しかし、聖徳太子の自らの信仰は古神道でした。日本書紀編纂時代以前の神道は「造化三神」(「宗源道」とも呼ばれる)崇拝だったのです。ただ、幼小期から物部、蘇我氏の宗教争いを見て悲しみ、宗教争そいに辟易していました。
    聖徳太子は、神祇伯・中臣御乞子(中臣鎌足の実父)から「古神道」を学んでいました。しかし、神道派の物部氏が蘇我氏によって滅ぼされてから身の危険を感じ、天皇になることは避けていました。蘇我氏によって暗殺されることを危惧していたからです。そして、摂政となって、「宗教争そい」を止めさせるために、斑鳩寺を建立し官僚らに「儒教、仏教、神道」を公平に教える学問所を建立しました。なんとか官僚らに宗教争い、宗教差別を止めさせようとしたのです。聖徳太子の子供たち一族も同様でした。しかし、仏教原理主義の蘇我馬子は、景教徒の秦氏と親しい聖徳太子が(「三つ子の魂、百まで」で「敬神の詔」を発布するなど)仏教に帰依しないことを恨み、聖徳太子一族を皆殺し抹殺したのです。
    蘇我氏は、仏教原理主義者の道慈に命じて日本書紀(現存は写本)の二条の改竄をもさせています。
    改竄後の17条憲法二条「篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり。」←「敬神の詔」とは明らかに矛盾します。
    「斑鳩寺(宗教争いを止めさせるために神道、儒教、仏教を公平に教える学問所)」を建立し、民、官僚らが「(神道派の物部氏が滅亡して)敬神の精神」が廃れることを危惧し「敬神の詔」をの発布したのです。その摂政、聖徳太子が「仏教だけが宝」だなんて宗教争いを誘導、拡大すつようなこと言うわけないのです。聖徳太子の「信教の自由」を阻害することなんかありえないのです。
    ないのです。
    元元の十七条憲法の二条は「篤く三法を敬え。三法とは需、仏、神なり。」です。(物部氏歴史観で書かれているとされる『千代旧事本紀』)

  22. 田中さんの論理飛躍の象徴。「俺の主張に反対するのは左翼だ」(もう失笑しかない

  23. 「乙巳の変」までの経緯、史実:

    蘇我氏馬子ら(仏教至上主義)者は、欽明天皇の妃・小姉君₍神道)派の高い皇位継承権を持つ子孫を「根絶やし」にした。それで、神道派の先鋒、中臣氏に復讐された。

    聖徳太子は、「丁未の乱」時の祈願(玉造稲荷神社の社伝、参照)、「四箇院」創建で明らかなように、個人的には、幼少期から中臣御乞子(神祇伯)から「古神道」を学んだ人で長じては景教の秦氏と強い親和性を持った人だった。祖母・小姉君、母・穴穂部間人皇女は物部氏と親しく神道派だった。

    景教と古神道は、極めて親和性が高かったから(聖徳太子と秦氏の関係が象徴してる)、皇室に対し極めて恩義を感じていた秦氏が(弓月君以降の東方キリスト教系の景教徒らが)、神道派だった聖徳太子を暗殺なんかをすることはありえない。

    「四箇院」にまったく関与してなかった蘇我蝦夷、馬子、入鹿らが「景教」はありえない。聖徳太子一家の側近だった秦氏こそが「聖徳太子公認の隠れ景教信徒」だった。

    田中さんの論は、「神仏習合絶対正義論」の「聖徳太子は仏教徒だった。」の結論先にありき」の牽強付会論でしかないと思える。聖徳太子暗殺に至るまでの、宮中の権力闘争の史実、時系列経緯を全く無視してる。

    以下の六点の重要な「宗教争そい」だけではない「欽明天皇の妃らによる権力闘争(蘇我氏派・仏教派・堅塩媛VS神道派・物部氏派・小姉君)」の側面を隠している。

    「蘇我氏、物部氏」の神私論争時、欽明天皇は中立(というか、「宗教は各自、御自由に」)だった。端的に言って聖徳太子にとって祖父の欽明天皇(妃・堅塩媛、妃・小姉君に対して中立)が「宗教は各自自由」の鷹揚な人だったから、太子は当然に従っていた。

    一、物部氏派だった小姉君₍神道派)の子孫(聖徳太子一族も含む)を皆殺しする前に、仏教原理主義の蘇我氏が崇峻天皇を暗殺した。

    二、蘇我氏は、崇峻天皇暗殺の前には、仏教派・蘇我氏派の欽明天皇の妃・堅塩媛(蘇我稲目の子)から暗殺許可を獲得して、神道派の妃・小姉君の子、穴穂部皇子(物部氏の後ろ盾)を殺害している。そうして、物部氏を孤立させておいて「丁未の乱」を起こして滅ぼした。

    三、崇峻天皇は、蘇我氏の権力闘争の謀略(背景には神仏論争にかこつけて、欽明天皇の妃ら、堅塩媛派VS小姉君派の権力闘争という面があった。蘇我氏は神道派の分裂を図る謀略として、神道派を油断させるために神道派の崇峻天皇を擁立した。)に利用されて天皇になった。

    四、蘇我氏は、天皇にしておいて用済(仏教広宣に邪魔になった)で暗殺の「マッチポンプ暗殺」だった

    五、その経緯をつぶさに見ていた聖徳太子は警戒していたが、暗殺された。実は聖徳太子の実母は、欽明天皇の妃・小姉君(物部氏派、神道派)の皇女・穴穂部間人皇女だった。つまりは、堅塩媛の皇子だった用明天皇から見れば男系としては皇子だが、実母の堅塩媛派と対立する小姉君族₍神道派)の「皇子」だったのである。

    つまり用明天皇亡き後では、聖徳太子の後盾は「小姉君派、神道派」だけで権力構造に中では弱者の立場だったのが聖徳太子だった。穴穂部皇子殺害の経緯をつぶさに見ていた太子は暗殺を警戒して天皇即位を断っていたが、それでも暗殺された。

    権威、権勢の代表になった「ローマ・カトリック」信徒らとは違って、景教のような(異端扱いされた)社会的弱者は(本来キリスト教信徒らは、当時は主力の律法主義者やファリサイ派に比べて、極めてマイナー派の精神、思想だった。だからこそ、「山上の垂訓」などを理解しやすいし弱者の立場で慈善、福祉事業に熱心。聖徳太子一家も、だからこそ、「四箇院」の慈善・福祉思想の景教の秦氏と極めて親和性を持っていた。元来、 「社会的強者のための宗教」の面が強い仏教界はそういった慣習、精神にもとづく実践活動は極めて希薄。

    六、つまところは、史実が証明してることは、蘇我馬子、入鹿らは、「小姉君₍神道派)」の子孫を「根絶やし」にした。

    当時の仏教界は、歴史書改竄はもとよりのこと、おどろどろしい陰惨な暗殺教団といえます。このような史実を隠して(あるいは無視、無知)で、暗殺の威嚇、恐怖感で習合させていた)「神仏習合」論を賛美するのは、お花畑、メルヘン平和主義でしかないと思います。

  24. 田中さんは、小乗仏教と大乗仏教(西暦1世紀後半以降に成立)を混同してる。
    重大で根本的な誤謬だよ。

  25. 大乗仏教の教義を、なんでも「釈迦、釈迦」って結びつけてるが、大乗仏教の教義は小乗仏教の教義とは、まったく異なるものが多い。

  26. 「丁未の乱」以降の「乙巳の変」までの史実が明白に証明してることは、とにかく、蘇我馬子、入鹿らは「小姉君₍神道派)」の子孫を「根絶やし」にし、そして「堅塩媛(仏教派)」の子孫にはまったく危害を与えていなかった、ということです。

  27. 一、「唯物史観」の田中さんの国史の前提になってる重要な事柄は「聖徳太子は仏教徒だった。」だが、聖徳太子が仏教徒だったという物的、合理的証拠は一切無い。伝聞は多くあるが、重要な『日本書紀』のでの記述(「丁未の乱」時の神社参拝(「元四天王寺」での誓願の内容)や十七条憲法)は、「道慈」という仏教至上主義の僧侶によって改竄されていた容疑が確定的で、「聖徳太子は仏教徒」の物的証拠(事跡)はないのである。(僧侶が執筆した仏教サイドの『日本書紀』(写本)の記述、歴史は神社側の物的証拠によって改竄と証明されている。)
    二、田中さんの古代史で、俊逸なのは、神武東征以前、「関東に一大文明の地域があった。」である。
    (ただし、それを秦氏や蘇我氏と結びつけるのは、ちょっと、ケタ外れです。)
    つまり、紀元前7000年頃、九州南部で「鬼界カルデラ」の「破局噴火」が起きた。それで九州、関西の縄文人は全滅した。降り積もった火山灰の影響は甚大で、それから数千年間、西日本では作物育成(農産)は不可能になっていたから、である。
    三、紀元前、8世紀、アッシリアによって北イスラエル‹(10支族の連合国)は滅んだ。それが日本の皇室生成の原点である。
    出雲族は、ヨルダン河の東岸にいて、アッシリアによって殺戮や捕囚される直前に、いち早く東方に避難したルベン族、マナセ族、ガド族のうちどれか、あるいは複数。彼らは東方を目指して、最終的に日本列島に渡来した「北イスラエル文化・ヨルダン川東岸文化」族である。神武天皇の皇祖の「ヤマト族」は、「捕囚」された後、アラム語で「ヤマトウ」とう名前の町に捕囚されていた。彼らは、後世、捕囚から逃れ、先鋒のヨルダン川東岸から逃れた三つの支族の、現地に残された伝承などを追ってシルクロードを辿って東方に流浪の民として、まず「イリ河」の平野に辿りついた。そこが「弓月国」である。そこには現在でも「邪馬図」という地名が(道路標識にも)残っている。
    つまり、「ヤマト族」とは、旧約聖書イザヤ書(24章14~16節)に謳われてうたように、先鋒三支族を追って、東方を目指して移民を続け、終に、日本列島に辿りついた北イスラエルの王族(ナフタリ族)だと思われる。
    その証拠は、天皇家の紋章がイスラエル(ユダ王国、北イスラエル王国」の紋章(ユダ=獅子、北イスラエル=一角獣)なこと。
    http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda4/51thAFuh7krwk47380.htm

    唯一絶対の一神教がユダヤ教、旧約聖書の建前なんだが、旧約聖書の記述にも、神が「我らは、・・・」と言う表現もあるように、その思想を継承したのが北イスラエルの「10支族」だったから、ナフタリ族思想の日本(皇室)は「汎神論」文明になってる面もある、と思える。

  28. 天皇家の紋章の実相:「菊の御紋」の上に「六芒星(ダビデの星)」があることは重要な意味を持っている。

  29. 田中さんの「秦氏は同化した。」は、意味が曖昧。何の面での「同化」なのか?
    典型的な「論理の転化」を利用した詭弁ですね。

    「三代、日本人と婚姻すれば同化する。」って何が同化ですか?
    形質人類学の次元(つまり、遺伝子的な面、分子人類学面)なら、そういうことは言えるが、
    文化面、宗教面、思想面の精神的な面でなら、そうは断言できません。
    何故なら、現在の「日本文化」、現在の「日本のメジャーな宗教」現在の「文化、慣習」などが、「秦氏渡来以前氏と、その後では、まったく変わっていない。」というなら、「秦氏は日本に(文化など精神面で)同化した。」
    と言えるでしょうが、秦氏が、渡来以前の日本の宗教、文化などに変化を与えていれば「同化」したとは言えっこないのです。

    例:宗教や文化を「合金」に例えると・・・
    純粋な鉄を高温で溶かして、それに数%の割合の、ニッケルを混ぜて冷えると、極めて強靭な錆びない合金のステレス鋼ができます。その場合、少ない割合だった「ニッケルが鉄に同化した。」とは言わないですね。
    そういう観点が「正しい事実認識」と「正しい筋道」にもとづく正論、正しい歴史認識だと思いますがね。
    「同化論」は、何か「結論(例:聖徳太子は、個人としては、あくまでも熱心な仏教徒だった。秦氏が旧来の日本文化、宗教、慣習に同化したので、秦氏の景教(ユダヤ教の伝統、慣習を濃厚に継承していた東方キリスト教)の影響を受けることはなかった。聖徳太子が、秦氏の景教に親和性を持ち続け、ユダヤ教の影響受けていた神社神道の信徒としての立場を堅持するなんてことは、なかった。」を導くためのトリック話法って感じます。

  30. 聖徳太子の個人的な宗教は、仏教ではありませんでした。あくまでも「(ユダヤ教、あるいは原始キリスト教の影響を受けていた)古神道で、堅持していました。それで、大乗仏教至上主義の蘇我馬子は、蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)と相図って、政敵の「欽明天皇妃・小姉君(神道派、物部氏派、堅塩媛の妹)の一派」として抹殺したのです。その前には、神道派の小姉君媛(堅塩媛ともども、姉妹とも欽明天皇妃だった。)の皇子の穴穂部皇子や、その実弟である崇峻天皇(泊瀬部)を暗殺しておいて、最終的には、神道派の小姉君の主たる皇族は殲滅、「根絶やし」にしたのです。

  31. 一、「同化」と「融合」は異なる。
    二、人類文明の進歩は、異質な文明が触れあって融合した場所(面)で起きてる。

  32. 長く元気で頑張っていただきたい。学問の世界はまともじゃないので。

  33. 日本国民が、「聖徳太子関連の宗教史」でもっとも重視すべきこと。:

    歴代天皇がご即位の大礼に着用された黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)の御束帯は、天皇陛下は代々、必ず、秦氏の氏寺の広隆寺(本尊・弥勒菩薩半跏思惟像に寄り沿う聖徳太子像に着せてもらうため)に下賜される、ということ。

  34. 文化庁のこと、本当に残念ですね。官はパヨっているんですね。
    官に苦労させられた安倍さんが、「政権が10年続けば官界を偏りから少しは正せる」
    10年までにはならなかったけど、少しは正常化に向いたのでは?
    文藝春秋の二度の論文が、安倍以前の官僚を表してますよね。
    揺れ戻しがあっても、もう以前には戻ることはないでしょう。
    これからの官に期待していきたいと思います。

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