おはようございます❗いつも拝聴しております ありがとうございます。私の師匠である松下幸之助拝聴🍀松下幸之助の皇室観 「日本精神は天皇家精神」日本精神というものを一口でいえば、私は日本の天皇家がここ2千年にわたって実行してこられた姿というか、実態がそれではないかという感じがするのです。もちろん天皇家といっても、個々の天皇についてはいろいろな方がおられたでしょけれども、二千年一貫して日本の天皇はどういう精神なり態度を以て終始しておられたかということです。 「日本精神の三本の柱」1 日本の天皇家は主座というというものをはっきりと保っておられたと思うのです。いわゆる自主性、主体性をもつと申しますか、自分というものをしっかり堅持するということになろかと思います。日本はこれまで外国からいろいろな宗教を取り入れきましたが、代々の天皇は、そうした宗教を国教にされたかというとそうではありません。1400年も前に仏教が入ってきましたが、これに帰衣された天皇は個々にありますけども、それはあくまでも個人的な立場で信仰されたのであって、天皇の位においては信仰されたのでありません。つまり天皇の主座は明け渡されなかっわけです。 また、奈良時代でしたか、日本が中国から太政官制度をとり入れた時にも、国民を治める太政官の上に、祖宗をまつる神祇官をもうけ、その両者を天皇が総括するように、つねに主座を保ってこられたお姿、ここに天皇家の一つの大きな特徴があると思うのです。 天皇家のお姿に見る第2の特徴は、衆知をあつめるということをたえず考えてこられたということです。古来日本には、八百万の神がおられるといわれています。つまり非常にたくさんの神様がなにか事があると集まって相談してきめられるということです。さらに、七世紀のはじめにつくられた聖徳太子の十七条憲法の第十七条には「それ事は独り定むべからず、必ず衆とともに宜しく論ずべし」とあります。また明治維新になって、日本の国是として「五ヶ条のご誓文」というものが発表されましたが、 その第一条には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」ということがはっきりとうたわれています。これは一つには当時の先進国における議会制度というものに学ぶところもあったと思いますが、しかしやはり、長年にわたってやしなわれてきた「衆知によって事をなす」という伝統の姿がそこにあらわれていると思うのです。 第三に天皇家が、和の心を大事にしてこられたということです。つまり、平和を愛好され、調和を大切にされてこられたということです。先ほど引用しました聖徳太子の十七条憲法の第一条には「和を以て貴しとなす」という条文があります。そのように和を愛しを以て国を治め、お互いに遇し合うと言う精神が、日本では千四百年近くも前からはっきりとうたわれているのです。実際日本の天皇の統治は、代々にわたっていわゆる権力政治ではなく、徳行政治というか、国民に親しまれ尊敬されるような政治がおおかったとかいわれていますが、これはとりもなおさず和の政治、すなわちお互いに仲良く、調和のうちにやっていこうという精神を身を以て実践してこられたからではないかと思います。そのように天皇家は、つねに国家の安泰と国民の幸福を念願されるとともに、さらに和の精神を外にも及ぼし、外国との友好、世界の平和をのぞんでかこられました。明治天皇の御製に「よもの海ならからと思う世になど波風のたちさわぐらむ」というのがあります。これは明治三十七年、すなわち日露戦争の年につくられたものだということです。そのような時期にもきわらず、「よもの海みなはらからと思う」と読まれたことは、いかに天皇家が平和を大切にしておられたかということを着実に物語っているのではないかと思うのです。このような主座を保つということ、衆知を集めるということ、和を尊ぶということ、この三本の柱が天皇家の終始変わらない方針があったと思うのです。それが日本の天皇家が期せず二千年余にわたって王座を保ってきておられる大きな原因であり、かつまたそれは天皇家の精神であると言えるのではないでしょうか。そしてまた、そういうものが日本精神ではないかと考えるのです。 天皇はなぜ尊敬されるのか? ご承知のとおり、日本の天皇が先般アメリカへ招待されて、非常な歓迎を受けました。(昭和50年)どうして日本の天皇が、そのようにアメリカで丁重なもてなしを受けるのかということです。それは単なる儀礼ではない。そこには何か権威というか、伝統の重みというか、言うに言われないものがあるのでしょう。その言うに言われるところの原因は、この三つです。日本の象徴としての立場、それは主座といってもよろしいでしょうが、その主座を保つという意識を以ておられる。そして、たえず耳を傾けて多くの人に物を聞いておられるという態度、それから和を尊ぶという二千年来の教え、そういうところから発散している権威といいますか、威厳といいますか、徳といいますか、そういうものがやはり雰囲気として出ている。電波のように出ている。それをアメリカ人が感じて、何となしに違うなぁ、何となしにいいなあということですになって、ああいう歓迎ぶりをしたのではないかという感じがするのです。
田中先生、誠に有難うございます。実は江戸川区の鹿骨にある鹿島神社を詣でました。先生が発信なさった鹿島神宮の宮司さまのお話から鹿骨の地名の由来は以前から知ってはいたのですが、神社で現認しました。鹿島神宮の大神が神鹿をお伴にされ春日大社にお移りになった旅の途中、病で倒れ亡くなった神鹿を丁寧に葬って祀ったそうです。付近にその鹿見塚もあります。先生が日頃仰るように、神社や地名が真の史実を現代でも語っているのですね。コロナ禍で、多くの方々が近所の神社仏閣を参拝し始めました。お寺だけに大袈裟かもしれませんが、地元(ローカル)に目が向き始め、グローバル時代の終焉が身近になってきました。
なるほど、持統天皇の御製は初夏、白たへを靡かせた香具山と、まだ何筋か雪を残している富士山とを重ね合わせたものなのかもしれませんね従来の解説では、百人一首に選ばれる理由が貧弱でしたから藤原定家の時代はこの事はまだ失われていなかったのかもしれません今回の様に和歌の視点から物事を考えると一気に説の妥当性が増しますね
古事記で神武東征の際、建御雷が葦原中国の平定した経験がある者として登場する場面ありますが、建御雷が関東の鹿島神宮に祀られているのも興味深いです。また、三輪山の大物主の子孫としても書かれているのが、さらに興味深いです。
高皇産霊神タカミムスビのカミ 天照大神がおかくれになってもはるか祖先の神が出てくる3神の一人が自分の子孫を指名する 日本の神話はなんと人間的であることか 具体性と家族性がある 世界の国々の中ではるかに優れた神話を持った国なのであろう ヒトが好む、いつのタイミングでも思い立ったらスーッと入っていける歴史が描かれている 開かれた世界である ユダヤ教の神のように全知全能のこの世におよそあり得ない神ではない 冷たい感じがしない 日高見國はどの様な国なのか 興味がわいてくる
歴史に学べる日本国家が辛うじて在って幸せです。これは日本先人たちのおかげです。これから先は分かりませんが。今生きてる人間は過去人間の生写しだと思います。今と過去日本人は繋がってます。日本人は賢い。日本人は特に自国歴史を知るべきだと思います。
スサノオの正体を古事記には「伊那イナンナ」と教えていますよ。57577の短歌はスサノオが作った音節ですが、古事記の中で「八雲立つ・・・」と57577で歌った意味は、ヒフミ数字で読むと「イナイナナ」つまり伊那のイナンナで男性では無く女性ですね。 天皇が即位される儀式に大嘗祭がありますが、ご存知の通り「悠紀殿」「主基殿」そして「廻立殿」がそれぞれ建てられ悠紀殿、主基殿でそれぞれ同じ食事をし一夜を明かし神?宇宙人?と交わるのです。現代の男女のデートの見本と言えるでしょう。但し天皇の正室はあくまでも皇后陛下ですので、廻立殿を建てて天皇の見送りとお目付け役(監視?)をされます。神との交わりは皇后公認の「側室」を意味しています。 正室は廻立殿であり、聖書のイブで伊吹や指宿でもあります。 また、古事記に書かれた神風伊勢とはカンビュセス、則ち女性神(宇宙人?)の名前で後ろから読むと「聖イブ神」となり正室のイブを表していると考えられます。 カンビュセスとはシュメール文明の王族キュロス1世の子供で孫には「スメルディス」仏陀の父親?が生まれ、カンビュセスの子供でキュロス2世はバビロンに捕囚されたユダヤ人を救い解放します。 また、キュロス2世はゾロアスター教(拝火教)との関連も指摘されていますし、仏陀の父親はマギとも関連が指摘され、徳島県の山地には三木家(マギ?)が大嘗祭の麻の衣装を代々提供しており古代天皇家には名前が真木と付く人物も皇后におられますし、先祖代々に渡り「火」を消す事なく灯し続けておられる集落があります。ギリシャオリンピックの聖火以上の「拝火」ではないでしょうか。因みにフリーメイソンはこの拝火教(ゾロアスター教)であり、モーツァルトのマジックフルート(魔笛)にも神官ザラストラが日本の狩衣を着て王子タミーノを助けます。タミーノは美濃太田を連想させますが。 同じく岐阜県の飛騨神岡にはノーベル賞のスーパーカミオカンデがありますが 超神を拝んで とも訳せますね。
権力のために嘘を書くのはc国、朝鮮だと思います。昔は名前は個人を指すのではなく主生家族を表した?昔は個人の名前というのは無くてその家族の名前だった。半島には国などなく、半島が日人の生活圏だったので半島の鉄は縄文人が自由に取れたんじゃないの?始皇帝が日本人が不老不死なのはそれを個人名と思ったから?
高天原の場所の問題を考える時に、縄文よりも古い時代には日本アルプスには富士山よりも高い山が存在していた事から始まる。ここに縄文人達の古い記憶と天孫降臨の神話が繋がれていくが、その山は現在無い。それに対して活火山富士は成長し縄文人達の記憶に実在山として新たに刻まれていく。これは、心的物語性と歴史的実在には時間的なギャップとして別地域でも語られだす。例えば、富士山や関東とは程遠い地域の事と思われても、今回の和歌で解すれば、この様な日本最初の和歌がある。 やぐもたつ いずもやえがき つまごみにやえがきつくる そのやえがきを この’いづも’を出雲と訳すか伊豆もと訳すかで雰囲気は大きく違う、出雲ならばスサノオがヤマタノオロチ退治後クシナダヒメを守るために 八重の雲がわきおこる 出雲の地に妻を籠らせるために 八重の垣根を作ってしっかり妻をまもろうぞ となるが、伊豆もならば縄文やまと朝廷以前の連合国家が富士山の火山活動から守るために八重の雲がわきおこる 伊豆もの地に妻を籠らせるために 八重の垣根を作ってしっかり妻をま守ろうぞ ともなる。という事は、神話であれ歴史であれ、実在者人間を護る事が先んじられた最初の歌とも言える。高天原が在ろうが無かろうが、実在者人間を護る事ができなければ神々の存在意味も無い訳である。と思われますがいかがなものでしょうか。
日本人としての誇りを持ち、私達のルーツには大変興味がありますので、田中先生のお話をいつも楽しく拝聴させて頂いております。 自分も薩摩隼人を母系ルーツに持つ者で、物部氏や忌部氏を父系ルーツに受け継いでいる者の一人で、口伝では四国より美濃へ移り住んできた越智一族の一派とされる稲葉氏、後に分派し林氏に改姓した子孫であると言い伝えられています。 近隣には豪族の古墳が点在し、先祖代々のお墓もこうした古墳の周りに寄添う様に建てられています。 現在、暮らしている飛騨地方にも旧石器時代や縄文遺跡が色濃く残り、見事な火焔土器もたくさん出土しています。 黒曜石も飛騨で採れ、飛騨山脈(北アルプス)の日本海沿い東側は糸魚川のヒスイの産地でもあります。 持統天皇が美濃の出身であることをお聞きしました事で、ふと想いを巡らしますと、美濃には垂仁天皇の皇女である倭姫命が、天照大神が鎮座する伊勢神宮へ導かれるまでの4年間滞在したとされる元伊勢が現存しており、御嶽山が美濃の東にはそびえ立ち、5万年前までは富士山よりも高い唯一の独立峰であったとされ、以前は東側の長野県側も美濃であったことから、諸々ある高天原説について感じるところを述べさせて頂きたいと思います。 御祭神を調べてみましたら国常立尊であり、御嶽山の北側には昔は、淡山(アワヤマ)とも位山とも称されていた乗鞍岳がそびえ、乗鞍本宮の頂上南嶺には御神域とされる高天原が現存しています。 太古、冬至の太陽も祭ったとされる日抱き御霊鎮めの神事が、標高3,000m付近では容易ではなくなった為、その御霊を分霊し、現在は標高1,500m程の位山(飛騨一之宮である水無神社奥宮)に移されと聞きました。 御祭神は国常立尊で、小さいながらも天の岩戸も祭られており、大嘗祭に於いては、天皇の位を授ける為の笏がこの地で採れたイチイの木を用いて仁徳天皇の御代より現在も献上されています。 南飛騨(旧美濃)には縄文時代に造られた巨石を用いた天文観測所跡と推測される遺跡や、御嶽山の南側にはアマテラスオオミカミがお産まれになった時の胎盤とへその緒が祭られているとされる恵那山があり、近隣にはメンヒルやドルメン、ストーンサークルも点在し、太陽の道標なるレイラインに添った巨石構造物が残っていたりしますので、竹内文書に見られるウガヤフキアエズ王朝が越の国(高志とも呼ばれ、福井・富山・新潟にかけて栄え、富山市皇祖皇大神宮を中心とした国)から飛騨美濃にかけての一大勢力(飛騨王朝)であったとされるので、全く信憑性がないとも言い難いと考えています。 茨城県にある皇祖皇大神宮は富山から茨城へと分霊されたとも聞きました。 また、飛騨山脈の2,000ⅿ付近には海底のサンゴや古代生物の化石が多く出土し、地質学的に見て日本最古の地層が形成されていることから、他地域よりも早くから生物の活動がみられ、人類の営みや文明も当然にして見受けられたのではないかと推測しています。確証は何一つ得られていませんが、古墳も含め旧石器、縄文時代の遺跡発掘調査に期待をしたいと思います。
アイデンティティという言葉が相応しいか知れませんが、日本国の独自性を、もっともっと探り広めていきたい。薄っぺらいグローバル思想なんて、全くゴメン被りたい。追記: 歩いて歩いて現地を踏んで見てこそ、歴史を身体で感じられるのですね❤️
40:20 いったん天香久山が定着すると富士山を忘れようとした…言わないということに却って大きな重みがある 奈良の『おおやまとじんじゃ』を訪れて、本殿の祭神については大切そうだなと感じつつも霧の向こうにあるようなよくわからなさがあり、本殿のすぐそばの『たかおかみ神社』や境内の『増御子神社(アメノウズメノミコトほか)』のご神気を感じてから周辺を散策した時でしたか、スサノオとコノハナサクヤヒメ🌸だけを祀った神社に出会い、ご祭神の取り合わせを興味深く思っていました。🗻
人が書いた文献記紀と学者の特権思い込みだけ出鱈目(物語)言うじゃないよ。歴史は文学じゃない。もっと中国の古書など調べたら。田中英道氏のエビデンスレベルでは関東では無く北九州にあったともいえる。 鉄器文化も北九州から始まる。記紀の神話は北九州の伝承に全てある。記紀はその伝承を元に天武天皇が日本統一と権力維持の為にユダヤ教を元に作ったプロパガンダ。日本は縄文からの古代民族の流壺で現地アニミズムと外来宗教からできたのが日本神道。高天原が関東からは始まったとは現代から見たこじつけである。神武天皇は始皇帝の末裔。
令和5年3月30日幾たびお話を訊くたびに、身近な視点に気づき、古の人人が大切にしているものを隠しながら守ってきた姿を思います。我が国は、古より最も大切なものは「隠す」「ぼんやりさせる」あるいは「こと挙げせず」とされてきたと思います。
おはようございます❗いつも拝聴しております ありがとうございます。
私の師匠である松下幸之助拝聴
🍀松下幸之助の皇室観
「日本精神は天皇家精神」
日本精神というものを一口でいえば、私は日本の天皇家がここ2千年
にわたって実行してこられた姿というか、実態がそれではないかという感じがするのです。
もちろん天皇家といっても、個々の天皇についてはいろいろな方がおられたでしょけれども、二千年一貫して日本の天皇はどういう精神なり態度を以て終始しておられたかということです。
「日本精神の三本の柱」
1 日本の天皇家は主座というというものをはっきりと保っておられたと思うのです。いわゆる自主性、主体性をもつと申しますか、自分というものをしっかり堅持するということになろかと思います。
日本はこれまで外国からいろいろな宗教を取り入れきましたが、代々の天皇は、そうした宗教を国教にされたかというとそうではありません。
1400年も前に仏教が入ってきましたが、これに帰衣された天皇は個々にありますけども、それはあくまでも個人的な立場で信仰されたのであって、天皇の位においては信仰されたのでありません。つまり天皇の主座は明け渡されなかっわけです。
また、奈良時代でしたか、日本が中国から太政官制度をとり入れた時にも、国民を治める太政官の上に、祖宗をまつる神祇官をもうけ、その両者を天皇が総括するように、つねに主座を保ってこられたお姿、ここに天皇家の一つの大きな特徴があると思うのです。
天皇家のお姿に見る第2の特徴は、衆知をあつめるということをたえず考えてこられたということです。
古来日本には、八百万の神がおられるといわれています。つまり非常にたくさんの神様がなにか事があると集まって相談してきめられるということです。さらに、七世紀のはじめにつくられた聖徳太子の十七条憲法の第十七条には「それ事は独り定むべからず、必ず衆とともに宜しく論ずべし」とあります。また明治維新になって、日本の国是として「五ヶ条のご誓文」というものが発表されましたが、 その第一条には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」ということがはっきりとうたわれています。
これは一つには当時の先進国における議会制度というものに学ぶところもあったと思いますが、しかしやはり、長年にわたってやしなわれてきた「衆知によって事をなす」という
伝統の姿がそこにあらわれていると思うのです。
第三に天皇家が、和の心を大事にしてこられたということです。
つまり、平和を愛好され、調和を大切にされてこられたということです。先ほど引用しました聖徳太子の十七条憲法の第一条には「和を以て貴しとなす」という条文があります。そのように和を愛しを以て国を治め、お互いに遇し合うと言う精神が、日本では千四百年近くも前からはっきりとうたわれているのです。実際日本の天皇の統治は、代々にわたっていわゆる権力政治ではなく、徳行政治というか、国民に親しまれ尊敬されるような政治がおおかったとかいわれていますが、これはとりもなおさず和の政治、すなわちお互いに仲良く、調和のうちにやっていこうという精神を身を以て実践してこられたからではないかと思います。そのように天皇家は、つねに国家の安泰と国民の幸福を念願されるとともに、さらに和の精神を外にも及ぼし、外国との友好、世界の平和をのぞんでかこられました。
明治天皇の御製に「よもの海ならからと思う世になど波風のたちさわぐらむ」というのがあります。これは明治三十七年、すなわち日露戦争の年につくられたものだということです。そのような時期にもきわらず、「よもの海みなはらからと思う」と読まれたことは、いかに天皇家が平和を大切にしておられたかということを着実に物語っているのではないかと思うのです。
このような主座を保つということ、
衆知を集めるということ、和を尊ぶということ、この三本の柱が天皇家の終始変わらない方針があったと思うのです。
それが日本の天皇家が期せず二千年余にわたって王座を保ってきておられる大きな原因であり、かつまたそれは天皇家の精神であると言えるのではないでしょうか。そしてまた、そういうものが日本精神ではないかと考えるのです。
天皇はなぜ尊敬されるのか?
ご承知のとおり、日本の天皇が先般アメリカへ招待されて、非常な歓迎を受けました。(昭和50年)
どうして日本の天皇が、そのようにアメリカで丁重なもてなしを受けるのかということです。それは単なる
儀礼ではない。そこには何か権威というか、伝統の重みというか、言うに言われないものがあるのでしょう。その言うに言われるところの原因は、この三つです。日本の象徴としての立場、それは主座といってもよろしいでしょうが、その主座を保つという意識を以ておられる。そして、たえず耳を傾けて多くの人に物を聞いておられるという態度、それから和を尊ぶという二千年来の教え、そういうところから発散している権威といいますか、威厳といいますか、徳といいますか、そういうものがやはり雰囲気として出ている。電波のように出ている。それをアメリカ人が感じて、何となしに違うなぁ、何となしにいいなあということですになって、ああいう歓迎ぶりをしたのではないかという感じがするのです。
かぐや姫のお話、楽しみにしております 🌕
日本の古代の歴史はいままで封印されてましたね。イスラエル民族が同化している歴史を知る時になりましたね!
神武よりもニギハヤヒが重要ですよね!
田中先生、誠に有難うございます。実は江戸川区の鹿骨にある鹿島神社を詣でました。先生が発信なさった鹿島神宮の宮司さまのお話から鹿骨の地名の由来は以前から知ってはいたのですが、神社で現認しました。鹿島神宮の大神が神鹿をお伴にされ春日大社にお移りになった旅の途中、病で倒れ亡くなった神鹿を丁寧に葬って祀ったそうです。付近にその鹿見塚もあります。先生が日頃仰るように、神社や地名が真の史実を現代でも語っているのですね。コロナ禍で、多くの方々が近所の神社仏閣を参拝し始めました。お寺だけに大袈裟かもしれませんが、地元(ローカル)に目が向き始め、グローバル時代の終焉が身近になってきました。
なるほど、持統天皇の御製は
初夏、白たへを靡かせた香具山と、まだ何筋か雪を残している富士山とを重ね合わせたものなのかもしれませんね
従来の解説では、百人一首に選ばれる理由が貧弱でしたから
藤原定家の時代はこの事はまだ失われていなかったのかもしれません
今回の様に和歌の視点から物事を考えると一気に説の妥当性が増しますね
古事記で神武東征の際、建御雷が葦原中国の平定した経験がある者として登場する場面ありますが、建御雷が関東の鹿島神宮に祀られているのも興味深いです。また、三輪山の大物主の子孫としても書かれているのが、さらに興味深いです。
高皇産霊神タカミムスビのカミ 天照大神がおかくれになってもはるか祖先の神が出てくる3神の一人が自分の子孫を指名する 日本の神話はなんと人間的であることか 具体性と家族性がある 世界の国々の中ではるかに優れた神話を持った国なのであろう ヒトが好む、いつのタイミングでも思い立ったらスーッと入っていける歴史が描かれている 開かれた世界である ユダヤ教の神のように全知全能のこの世におよそあり得ない神ではない 冷たい感じがしない 日高見國はどの様な国なのか 興味がわいてくる
「ウィルスのような仕掛けられた疫病みたいなものに、負けてはいけないんですね」。
先生のお言葉で、本当に力が湧いてきました。
改めて自分の分を尽くしたいと思います。
先生、スタッフ方々ありがとうございます。
歴史に学べる日本国家が辛うじて在って幸せです。これは日本先人たちのおかげです。これから先は分かりませんが。
今生きてる人間は過去人間の生写しだと思います。今と過去日本人は繋がってます。
日本人は賢い。日本人は特に自国歴史を知るべきだと思います。
スサノオの正体を古事記には「伊那イナンナ」と教えていますよ。57577の短歌はスサノオが作った音節ですが、古事記の中で「八雲立つ・・・」と57577で歌った意味は、ヒフミ数字で読むと「イナイナナ」つまり伊那のイナンナで男性では無く女性ですね。
天皇が即位される儀式に大嘗祭がありますが、ご存知の通り「悠紀殿」「主基殿」そして「廻立殿」がそれぞれ建てられ悠紀殿、主基殿でそれぞれ同じ食事をし一夜を明かし神?宇宙人?と交わるのです。
現代の男女のデートの見本と言えるでしょう。
但し天皇の正室はあくまでも皇后陛下ですので、廻立殿を建てて天皇の見送りとお目付け役(監視?)をされます。
神との交わりは皇后公認の「側室」を意味しています。
正室は廻立殿であり、聖書のイブで伊吹や指宿でもあります。
また、古事記に書かれた神風伊勢とはカンビュセス、則ち女性神(宇宙人?)の名前で
後ろから読むと「聖イブ神」となり正室のイブを表していると考えられます。
カンビュセスとはシュメール文明の王族
キュロス1世の子供で孫には「スメルディス」仏陀の父親?が生まれ、カンビュセスの子供でキュロス2世はバビロンに捕囚されたユダヤ人を救い解放します。
また、キュロス2世はゾロアスター教(拝火教)との関連も指摘されていますし、仏陀の父親はマギとも関連が指摘され、徳島県の山地には三木家(マギ?)が大嘗祭の麻の衣装を代々提供しており古代天皇家には名前が真木と付く人物も皇后におられますし、先祖代々に渡り「火」を消す事なく灯し続けておられる集落があります。
ギリシャオリンピックの聖火以上の「拝火」ではないでしょうか。
因みにフリーメイソンはこの拝火教(ゾロアスター教)であり、モーツァルトのマジックフルート(魔笛)にも神官ザラストラが日本の狩衣を着て王子タミーノを助けます。
タミーノは美濃太田を連想させますが。
同じく岐阜県の飛騨神岡にはノーベル賞のスーパーカミオカンデがありますが 超神を拝んで とも訳せますね。
権力のために嘘を書くのはc国、朝鮮だと思います。昔は名前は個人を指すのではなく主生家族を表した?昔は個人の名前というのは無くてその家族の名前だった。半島には国などなく、半島が日人の生活圏だったので半島の鉄は縄文人が自由に取れたんじゃないの?始皇帝が日本人が不老不死なのはそれを個人名と思ったから?
天の香久山=富士山
https://www.youtube.com/watch?v=SSnZVkLivCA
高天原の場所の問題を考える時に、縄文よりも古い時代には日本アルプスには富士山よりも高い山が存在していた事から始まる。ここに縄文人達の古い記憶と天孫降臨の神話が繋がれていくが、その山は現在無い。それに対して活火山富士は成長し縄文人達の記憶に実在山として新たに刻まれていく。これは、心的物語性と歴史的実在には時間的なギャップとして別地域でも語られだす。例えば、富士山や関東とは程遠い地域の事と思われても、今回の和歌で解すれば、この様な日本最初の和歌がある。
やぐもたつ いずもやえがき つまごみに
やえがきつくる そのやえがきを
この’いづも’を出雲と訳すか伊豆もと訳すかで雰囲気は大きく違う、
出雲ならばスサノオがヤマタノオロチ退治後クシナダヒメを守るために
八重の雲がわきおこる 出雲の地に
妻を籠らせるために 八重の垣根を作って
しっかり妻をまもろうぞ
となるが、
伊豆もならば縄文やまと朝廷以前の連合国家が富士山の火山活動から守るために
八重の雲がわきおこる 伊豆もの地に
妻を籠らせるために 八重の垣根を作って
しっかり妻をま守ろうぞ
ともなる。
という事は、神話であれ歴史であれ、実在者人間を護る事が先んじられた最初の歌とも言える。高天原が在ろうが無かろうが、実在者人間を護る事ができなければ神々の存在意味も無い訳である。と思われますがいかがなものでしょうか。
日本人としての誇りを持ち、私達のルーツには大変興味がありますので、田中先生のお話をいつも楽しく拝聴させて頂いております。
自分も薩摩隼人を母系ルーツに持つ者で、物部氏や忌部氏を父系ルーツに受け継いでいる者の一人で、口伝では四国より美濃へ移り住んできた越智一族の一派とされる稲葉氏、後に分派し林氏に改姓した子孫であると言い伝えられています。
近隣には豪族の古墳が点在し、先祖代々のお墓もこうした古墳の周りに寄添う様に建てられています。
現在、暮らしている飛騨地方にも旧石器時代や縄文遺跡が色濃く残り、見事な火焔土器もたくさん出土しています。
黒曜石も飛騨で採れ、飛騨山脈(北アルプス)の日本海沿い東側は糸魚川のヒスイの産地でもあります。
持統天皇が美濃の出身であることをお聞きしました事で、ふと想いを巡らしますと、美濃には垂仁天皇の皇女である倭姫命が、天照大神が鎮座する伊勢神宮へ導かれるまでの4年間滞在したとされる元伊勢が現存しており、御嶽山が美濃の東にはそびえ立ち、5万年前までは富士山よりも高い唯一の独立峰であったとされ、以前は東側の長野県側も美濃であったことから、諸々ある高天原説について感じるところを述べさせて頂きたいと思います。
御祭神を調べてみましたら国常立尊であり、御嶽山の北側には昔は、淡山(アワヤマ)とも位山とも称されていた乗鞍岳がそびえ、乗鞍本宮の頂上南嶺には御神域とされる高天原が現存しています。
太古、冬至の太陽も祭ったとされる日抱き御霊鎮めの神事が、標高3,000m付近では容易ではなくなった為、その御霊を分霊し、現在は標高1,500m程の位山(飛騨一之宮である水無神社奥宮)に移されと聞きました。
御祭神は国常立尊で、小さいながらも天の岩戸も祭られており、大嘗祭に於いては、天皇の位を授ける為の笏がこの地で採れたイチイの木を用いて仁徳天皇の御代より現在も献上されています。
南飛騨(旧美濃)には縄文時代に造られた巨石を用いた天文観測所跡と推測される遺跡や、御嶽山の南側にはアマテラスオオミカミがお産まれになった時の胎盤とへその緒が祭られているとされる恵那山があり、近隣にはメンヒルやドルメン、ストーンサークルも点在し、太陽の道標なるレイラインに添った巨石構造物が残っていたりしますので、竹内文書に見られるウガヤフキアエズ王朝が越の国(高志とも呼ばれ、福井・富山・新潟にかけて栄え、富山市皇祖皇大神宮を中心とした国)から飛騨美濃にかけての一大勢力(飛騨王朝)であったとされるので、全く信憑性がないとも言い難いと考えています。
茨城県にある皇祖皇大神宮は富山から茨城へと分霊されたとも聞きました。
また、飛騨山脈の2,000ⅿ付近には海底のサンゴや古代生物の化石が多く出土し、地質学的に見て日本最古の地層が形成されていることから、他地域よりも早くから生物の活動がみられ、人類の営みや文明も当然にして見受けられたのではないかと推測しています。
確証は何一つ得られていませんが、古墳も含め旧石器、縄文時代の遺跡発掘調査に期待をしたいと思います。
アイデンティティという言葉が相応しいか知れませんが、
日本国の独自性を、もっともっと探り広めていきたい。
薄っぺらいグローバル思想なんて、全くゴメン被りたい。
追記: 歩いて歩いて現地を踏んで見てこそ、歴史を身体で感じられるのですね❤️
40:20 いったん天香久山が定着すると富士山を忘れようとした…言わないということに却って大きな重みがある
奈良の『おおやまとじんじゃ』を訪れて、本殿の祭神については大切そうだなと感じつつも霧の向こうにあるようなよくわからなさがあり、本殿のすぐそばの『たかおかみ神社』や境内の『増御子神社(アメノウズメノミコトほか)』のご神気を感じてから周辺を散策した時でしたか、スサノオとコノハナサクヤヒメ🌸だけを祀った神社に出会い、ご祭神の取り合わせを興味深く思っていました。🗻
人が書いた文献記紀と学者の特権思い込みだけ出鱈目(物語)言うじゃないよ。
歴史は文学じゃない。
もっと中国の古書など調べたら。
田中英道氏のエビデンスレベルでは関東では無く北九州にあったともいえる。
鉄器文化も北九州から始まる。
記紀の神話は北九州の伝承に全てある。
記紀はその伝承を元に天武天皇が日本統一と権力維持の為にユダヤ教を元に作ったプロパガンダ。
日本は縄文からの古代民族の流壺で現地アニミズムと外来宗教
からできたのが日本神道。
高天原が関東からは始まったとは現代から見たこじつけである。
神武天皇は始皇帝の末裔。
令和5年3月30日
幾たびお話を訊くたびに、身近な視点に気づき、古の人人が大切にしているものを隠しながら守ってきた姿を思います。
我が国は、古より最も大切なものは「隠す」「ぼんやりさせる」あるいは「こと挙げせず」とされてきたと思います。