【引退】ジャンボ尾崎が生涯現役を続けた訳

【引退】ジャンボ尾崎が生涯現役を続けた訳



ジャンボ尾崎が大会を棄権。限界をこえても現役を続ける姿が痛々しいをご覧ください。
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音楽:甘茶の音楽工房
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5 comments
  1. ゴルフデ 借金返す 聞いたこと無いわ⁉️他に なにもできないから やってるだけだろ‼️馬鹿が、

  2. ヤツは自分さえ良ければ良しとする人間の典型。今は全くの裸の大様。相変わらず昔の栄光が今も通用すると思っている。(実際には、現役と称し、ツアーにしゃしゃり出ては大叩きして途中棄権・・・周りのプロ連中が陰で嘲笑しているのも知らないで)本来は、青木、倉本らのようにゴルフ界で受けた恩恵を返すべく、若手の育成とか、日本ゴルフ協会でゴルフの振興に尽力する立場になっていなければおかしい。「昔の名前~で、出ていま~す」はカラオケだけにしてほしい。

  3. このニュースは時系列的にも内容的にも間違いが多いですね。ジャンボがプロテストに合格したのは1970年ではなく1969年秋。当時は半年間の見習い期間があったのでプロ入会は1970年春となって、それからプロ月例会などで優勝して関東プロ、関東オープンなどに出場した。1970年デビュー戦の関東プロで優勝したのは本戦ではなくエキジビションのドラコン選手権で330ヤードではなく342ヤードである。ジャンボは1971年に日本プロをはじめ5勝して賞金王になって、1972年には日本のプロゴルファーとして初めてゴルフ関係以外のCMに出演するなど一躍、日本の第一人者になったが5歳年上の青木功は1964年にプロ入会したがやっと初勝利、1勝したのが1971年。ジャンボは1972年に10勝して賞金王。5歳年上の青木功よりデビューしてすぐ活躍している。青木功は5歳年下のジャンボを目標にがんばったと言える。青木功が初めて賞金王になったのは1976年。ジャンボに遅れる事、5年だった。日本のゴルフツアーはジャンボ登場によって試合数が増え、1973年からツアー制定されて賞金王12度となっているが実質的には1971/1972にも獲得しているので14度である。永久シードを獲得したのもジャンボが先。豪邸を建てたのもスポーツカーが並ぶ私生活を送っていたのは第一次黄金時代(1971-1977年くらいまで)の時代の話。また、これらで特に借金はしていない。長期スランプから脱出した1986年からの第二期黄金時代ではゴルフ一筋の生活で庭も大改造してグリーンなどにした。ブリヂストン契約時の最後の年の1997年に50歳で賞金王になっている。ブリヂストン時代はJ'sブランドが年間100億円以上の売り上げがあり、その5%はジャンボの収入になったと言われる。ブリヂストンからワールドワンに契約を変えたのは自宅庭となりの空地の買収支援を得られなかったという話である。新興メーカーのワールドワンは経営者が賭博容疑で逮捕され倒産した。そのあおりを受けたのは確かだが1998年はそれにも負けず51歳で賞金王になっている。負債をおった大部分はワールドワン倒産というょり親族や取り巻きの不動産投資のためと言われている。ジャンボは毎週ツアー出場、オフにも練習合宿をしていたので不動産投資をする時間的余裕はなかった。だがジャンボ自身は親族や取り巻きのせいにはしていない。自己破産ではなく、習志野の白亜の御殿も売却、個人民事再生法を選び、少しずつ返済する方法を選んだ。三流メディアに青木功との確執と書かれた同じような記事はあったが青木功はジャンボの実績、ジャンボ流コメントを一番理解しているプロであり、ジャンボとの確執などない。記者がジャンボの批判をしてもそれを叱る青木功である。もともと、ジャンボは私生活ではどちらかと言えば無口だがメディアの前ではリップサービスとして大言壮語を言うところがある、記事の文章だけを読むと腹の立つ言い方もあるがインタビュー時は笑いを誘うユーモアもまじえた表現になっている。まじめばかりのアマ的なコメントよりそれも人気の要素だったがアンチが多くなった、好き嫌いの別れる理由のひとつでもあった。1990年の三菱ギャラン以降、活躍の場が青木功を海外に移したような記述も完全な誤り。青木功は1978年に世界マッチプレーで優勝、1980年に全米オープン2位、1983年にハワイアンオープン優勝あたりから海外が多くなっている。確執というより1992年8月に50歳になった青木功はレギュラーツアーから米シニアツアー主体にシフトし、海外が多くなったというのが真相。ジャンボは2002年の55歳まで勝利(最年長優勝)、2004年の57歳まで賞金シードを続けた。ワールドワンが倒産してからもジャンボは7年間賞金シードを続けている。50歳以上でレギュラーツアーに複数勝利したのもジャンボの12勝と杉原の4勝のみ。2004年後半から坐骨神経痛が発生、二度の手術。2005年に賞金シードから転落した。しかし、2007年の60歳まで平均280ヤードの飛距離を維持、2012年の65歳までは平均270ヤード程度のツアーレベルの飛距離を維持していた。米PGAツアーではツアー全体の平均スコアプラス3くらいが永久シードを維持する目安とされているがジャンボは2,3年前までそのレベルを維持していた。亡くなった杉原輝雄の方が平均80以上になっても永久シード権を利用して出場していた。ジャンボに対しては人気もあるがアンチも多いので批判、厳しいコメントがあるのでしょう。70歳になった昨年の平均飛距離は256ヤード。永久シード権で参戦しているが全試合出場しているわけではない半分くらいである。まだまだ、練習場ではいい球は打っているし、アプローチ技術はツアートップクラスだが坐骨神経痛の影響で歩くのに不自由しているところが難点である。シード権のない選手が推薦で出場しているケースもあるが決してジャンボ以上の成績はでていない。出場権は自分で勝ち取るものであって譲ってもらうものではない。ジャンボは永久シード4人分の活躍、日本のツアー制度確立、有料ギャラリー制度の立役者でもある。負債のせいと坐骨神経痛、腰の問題できれいな引き際にはならなかったがボロボロになるまでやるものそれは個人の選択でしょう。習いに来たレギュラーツアーの選手にはアドバイスはしているし。ジュニアの育成もしているので自分の事ばかり考えているわけではないでしょう。負債による個人民事再生法で自宅及び自宅庭の練習環境は失ったが新たな広大な10打席はある280ヤードのドライビングレンジ及びアプローチグリーン、バンカー施設でジャンボとジャンボを慕うプロ達、ジャンボジュニアアカデミーの男女が一緒に日々切磋琢磨、練習している。新人女子プロの原英梨花プロは高校1年からここで練習、スポットだが現役時代は古閑美保プロも練習、最近米ツアーに優勝した小平プロも練習しに来た事があり、優勝後も報告にこの練習環境に来ている。

  4. 長嶋がいたから野球が国民的スポーツになったと思う、ジャンボがいなかったら今のプロゴルフはなかったのではないかと私は確信する。
    お上品ではないジャンボだが、片山との違いは「ファンファースト」笑顔とトークがありファンが帯同し続けてる。

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